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作家として
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2015年11月16日月曜日

冥王星が迫ってきても

月と冥王星の強いこの時期(私の個人チャートの話です)。

いくつかの冥王星的な出来事との遭遇がありましたが、その中でも「死」にかかわるものがやはりありました。
冥王星は「死」にまつわる意味を持ちます。

一つは長年の友人の義父が亡くなったとの知らせ。

もう一つは、知人のペットの他界。

親しくしている存在がこの世を去る悲しみは、やはり痛切なものです。



私は魂(人間に限らず、あらゆる生命)の実在を信じています。

信じているというか、それは信仰の問題ではなく、どっちかというと、すっと胸の中に入っている感覚のものです。

当たり前に、命は光(ヒビキ)となって存在している。
それは肉体のあるなしにかかわりがない。

と感じています。

自分も死ねばそうなるだろうし、たとえば2012年の6月に私が喪主となって送った父もそうであろうと思っています。


私はもともと情が濃いチャートではなく、わりとドライです。

だから感情に流されて溺れてというような経験は、この53年近い人生でもほとんどありません。

父が亡くなった時、自分はやはり父のことが好きだったと感じ、涙の横溢もありました。

が、悲痛な感じではなく(父の入院後の衰弱状態から、なんとなくもう覚悟をしていた)、どちらかというと、その後の葬儀屋やらなんやらの、現実的にしなければならないことのほうが、どかんと頭を占めていました。

綺麗ごとでだけでは済まないのが現実で、現実を生きるというのは、やはりそういう側面も最低半分はあるというのが、大多数ではないでしょうか。

責任を負わされればよけいです。

もちろん愛する存在を喪って、その悲嘆の中に埋没してしまうような、そんな感情の奔流を経験する方もいらっしゃるし、それを否定するものではありません。

それは、そういう方でないと味わえない体験だと思うのです。


私はそういう感情の奔流の中で、愛する人の喪失でぼろぼろになって、そしてようやく立ち直っていこうとしている人も知っています。

その方も冥王星が強く働く時期でした。

そういう経験は凄絶で、本当に自らが死の際まで行くような恐ろしさがあります。



私は私で、父をあの世に送った作業の後、よく父にまつわる夢を見ました。

その中には父が今どんな状態なのか、なんとなく知らせてくれるようなものもありました。

それは私の思い込みなのかもしれませんが、私は私は折に触れ、父のことを思い出し、その冥福を祈っていました。

いいところへ逝ってもらいたいと。


ドライなタイプであっても、ドライな人間なりの送り方や、思い出がある。

自分なりに亡くなった存在を想う、その想い方があるのです。

必ずしも号泣して悲しみに暮れ続けるだけが、想い方のありようではない。


むろん号泣するのもありですよ。


どちらもOK。




私が「死」について、強く感じる経験をしたのは、過去二度です。

27年前に同じ月と冥王星のアスペクトがあった時。

トランジットの冥王星が、太陽に重なった2006年ごろ。

前者では、自分が死のうとまでは思いませんでしたが、人の命がかくもきわどい部分で揺らいでいるのだと実感した時期でした。

私のような性質でなかったら、その時に自分の死も考え方かもしれません。

二度目は自分の死について真剣に思いつめた時期でした。

その時はものすごく現実的な事案に追い詰められ。


「死」は冥王星の専売特許ではありませんが。

こんな厳しい時期も生き抜いてきた経験から、やはりお伝えしておきたいことはあります。

自分の経験したことなど、もっとつらい経験は世の中にいっぱいあるので、決してひけらかすようなものではありません。

でも、冥王星がすごく迫ってきて、今ものすごく辛くても。

やっぱり生きてゆけるのです。

その人なりのクリアの仕方は違いますが。



だから。

決して絶望だけはしないでほしい。


喪ったと思えるものも、そう思える命も。

ちゃんとヒビキとなって、あなたと共にある。


それは忘れないでほしい。





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