ご訪問ありがとうございます。
こちらはZEPHYRのメインサイトです。
amebaのZEPHYRとは姉妹ブログになっております。


作家として
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2024年9月14日土曜日

通じる祈りや願い

前回、このサイトでは、神社で「個人的なことは願わなくて良い」ということを書きました。
基本的には。

では、どういう〝祈り〟が良いのか?
というと、やはり他者のための祈りかなと思います。

たとえば家族の健康。
安全。

私の息子は今、日々、他府県に走り回るような仕事になってしまっていますが、私も道中の安全は祈ります。
また娘に今、健康上不調な傾向が出てきていますので、祈りました。

また知人でも、何かしらお願いすることはあります。

結局、〝利他的な祈り〟なのです。

利他的であればあるほど良く、それはもっと言えば、国土の安寧とか、日本の平和、世界の平和などに繋がっていきます。

これらの祈りや願いはOKなのではないか、と感じます。

OKなのか否定なのか、という極端な話じゃないのですが。

窮すれば、自分のこともお願いしたくなるのが人情。
でも、私は過去、窮していたけれど、渾身の祈りが通じなかったことがあります。
その1日だけの話ではなく、かなりの期間……ちょっと忘れましたけど、1年以上くらい?……毎日かよってお願いしていたことが通じなかった。

通じないことは通じない。
どれだけ真剣に祈り、願っても。

それは、やはり個人のエゴから発したものであり、大局が見られていないから。
神仏は大局が見えている(もっと魂的な見地での大局)。

エゴの願いと一致する場合もあるでしょう。
たまたま。

でも、欲していれば何でも与えてやるというのは違う。

そんな中で、個人的なことでも、〝身体健全〟くらいはお願いしても良いかな……?
みたいな感じはあります。

健康であることは、この社会での仕事や人間関係、また家族などにも波及する、きわめて根源的なものです。
基礎中の基礎の部分と言っても良いと思うのですが、どうにもならない症状とか疾病と向き合っている方に、「それは祈るな」とは、私には到底言えません。

年収をいくらにしたいとか、出世したいとか、ライバルを蹴落としたいとか、そういう浅ましい個人欲に根ざしたものとは違っていると思います。

昨年の秋、東京鑑定後、私は神奈川県の寒川神社に人生で二度目の参拝を行いました。

早朝だったので、まだ人も少なくても、せっかくだからご祈祷を受けていこうと思ったのですが、受付で
「何のご祈願ですか」
と問われ、実はその場で問われると思っていなくて、考えていなかった。💦

でも、去年は夏以来、ずっっっと、長く腰痛に悩まされていて、仕事にもいろいろ支障が生じていました。
11月の東京鑑定も、腰を固定するベルトを持っていって、ひどいときには巻いていました。

それで、「あ、じゃ、身体健全で」と思わず答えたのですが……

なんと、その日、帰宅後、ベルトを外して過ごしていたら、あら不思議。
その日以来、あのひどかった腰痛がきれいに消えたのです。
あれほど長期、悩まされたのに。

これはもう、ご霊験としか考えられませんでした。
十分に苦しんだというご配慮かもしれませんし、他の理由かもしれません。

私はそのへんのスピリチュアル的な感覚はないので、そういった方々のご意見とは異なるかもしれません。

自分で祈願するのではなく、ご祈祷を受けたのが良かったのかもしれません。
というのも、宮司さんとか神官さんに祈祷してもらうというのは、その人からして〝利他的な祈り〟になるからです。

このあたりのことは謎。

私も出張鑑定では、いつも近くの神社でお祈りします。
鑑定会が無事に執り行えるように、また来場されるお客様が無事に往来できますように、と。
お客様のお役に立てる鑑定ができますようにと。

これらも、一見自分の仕事のためみたいな印象を与えるかもしれませんが、欲得での願いとは違っていると思われませんか?

同様に、大分前からご神前では、自分が人のため社会のために役立てること、何か必要とされることなどあれば、お使いください、と祈ることもあります。

これが思考という形だけよりも、心からのものになった方が、結果的にですが、仕事も発展しやすいように思います。

自分から離れる。
欲得から離れる。

そういう祈りになればなるほど、それは通じやすくなるし、結果的に自分の循環も良くなる。

そう感じています。
でも、

2024年7月31日水曜日

個人的なことは願わなくて良い

神仏に祈っても叶わないことはたくさんあります。
皆さんもあったのではないでしょうか?

そうしたとき、「これだけ強く、真剣に祈っても叶わないなんて、神も仏もこの世にはいないんだ!」と思う人も珍しくありません。

でも、神仏はおわします。

霊的な観るとか聴くとか、そのような能力には私にはありませんが、そうとしか思えない不可思議な体験はいくつもあります。

じゃ、神仏が存在するのに、なぜ自分の願いを聞き届けて実現してくださらないのか?

神仏が高次の存在だとすると、私たちよりもはるかにものが見えていますし、わかっています。
参拝に来た人の何もかも見通していて不思議ではありません。

その人が「大金持ちにしてください」と祈願する。
その人が「好きなあの人と結婚させてください」と祈願する。

いろいろですが、それはたいがい、個人の欲望、エゴから発した願望であることが多い。

「いやいや、大金持ちになれるだけの努力もしていないし、金持ちになってあなたは何をしようとしているの?」
「あなたの好きな人とは根本的に縁がないし、仮に結婚しても不幸せになるだけですよ」

とか、神仏は見通しているのが普通です。
え? 何でそう言えるかって?

だって、じゃ。
あなたの子どもが、「好きなゲームを全部買ってほしい」とねだってきたら、全部買ってやりますか?
あなたの子どもが、「ホストの推しがいる。彼にすべてを捧げたい。彼が結婚しようと言ってくれてる」と言ったからといって、「よしよし応援してやろう」となりますか?

大人の目から見て、明らかにダメな選択欲求もあれば、普通に考えて無理とか、なんかおかしな方にいっているとわかる選択欲求もあるじゃないですか。

神仏というのは、私たちより、はるかにはるかにはるかに、大人な存在です。

私たちからすれば、まっとうで良い願いだと思って祈っていても、神仏視点では「いやいや、それは」ということは、すごくたくさんあると思いませんか?

すごく率直なことを書かせていただきますし、不快に思う方もいらっしゃるかもしれないのですが、
寺社に毎日毎日参拝し、熱烈に叶えたい願いを祈り続けたところで、しょせん叶わない願いはあるのです。

むしろエゴから発している個人的な願いであればあるほど、叶いにくい。
願えば願うほど、祈れば祈るほど、逆にそれが与えられない、という悪循環にも陥りかねません。


この頃、神社で天津祝詞を上げるたびに思うことがあります。

あの祝詞は、罪や汚れを祓い清めてください、と神様に申し上げているだけです。
文言がそのまんまです。

つまり、自分に罪や汚れがあれば祓い清めてください。
世の中に罪汚れがあれば、それを祓い清めてください。

と、お願いしているのが、天津祝詞なのです。

これで十分なのでは?

個人的な願いなど、本当にその人が必要としているものであれば、神仏は理解してくださっている。
願わなくてもわかってくださっている(はず)……と私は思っているのです。

むしろ、その執着から離れ、自分と世の中を祓い清めてくださいと真剣に思えるような人間なら、「おおそうか、そこまで来たか」と助けてくださることも多いのでは?

ここ打算でやっちゃいけないところ! なんですけど。(笑)

とにかく、言葉として、言霊として、天津祝詞を上げ続けるというのは、〝形〟として良い入り方かもしれません。
そのときには、個人の願い事などしなくていい。

と、今の私は思っています。

次回は、今の私の〝祈り〟について書かせていただきます。