前回、このサイトでは、神社で「個人的なことは願わなくて良い」ということを書きました。
基本的には。
では、どういう〝祈り〟が良いのか?
というと、やはり他者のための祈りかなと思います。
たとえば家族の健康。
安全。
私の息子は今、日々、他府県に走り回るような仕事になってしまっていますが、私も道中の安全は祈ります。
また娘に今、健康上不調な傾向が出てきていますので、祈りました。
また知人でも、何かしらお願いすることはあります。
結局、〝利他的な祈り〟なのです。
利他的であればあるほど良く、それはもっと言えば、国土の安寧とか、日本の平和、世界の平和などに繋がっていきます。
これらの祈りや願いはOKなのではないか、と感じます。
OKなのか否定なのか、という極端な話じゃないのですが。
窮すれば、自分のこともお願いしたくなるのが人情。
でも、私は過去、窮していたけれど、渾身の祈りが通じなかったことがあります。
その1日だけの話ではなく、かなりの期間……ちょっと忘れましたけど、1年以上くらい?……毎日かよってお願いしていたことが通じなかった。
通じないことは通じない。
どれだけ真剣に祈り、願っても。
それは、やはり個人のエゴから発したものであり、大局が見られていないから。
神仏は大局が見えている(もっと魂的な見地での大局)。
エゴの願いと一致する場合もあるでしょう。
たまたま。
でも、欲していれば何でも与えてやるというのは違う。
そんな中で、個人的なことでも、〝身体健全〟くらいはお願いしても良いかな……?
みたいな感じはあります。
健康であることは、この社会での仕事や人間関係、また家族などにも波及する、きわめて根源的なものです。
基礎中の基礎の部分と言っても良いと思うのですが、どうにもならない症状とか疾病と向き合っている方に、「それは祈るな」とは、私には到底言えません。
年収をいくらにしたいとか、出世したいとか、ライバルを蹴落としたいとか、そういう浅ましい個人欲に根ざしたものとは違っていると思います。
昨年の秋、東京鑑定後、私は神奈川県の寒川神社に人生で二度目の参拝を行いました。
早朝だったので、まだ人も少なくても、せっかくだからご祈祷を受けていこうと思ったのですが、受付で
「何のご祈願ですか」
と問われ、実はその場で問われると思っていなくて、考えていなかった。💦
でも、去年は夏以来、ずっっっと、長く腰痛に悩まされていて、仕事にもいろいろ支障が生じていました。
11月の東京鑑定も、腰を固定するベルトを持っていって、ひどいときには巻いていました。
それで、「あ、じゃ、身体健全で」と思わず答えたのですが……
なんと、その日、帰宅後、ベルトを外して過ごしていたら、あら不思議。
その日以来、あのひどかった腰痛がきれいに消えたのです。
あれほど長期、悩まされたのに。
これはもう、ご霊験としか考えられませんでした。
十分に苦しんだというご配慮かもしれませんし、他の理由かもしれません。
私はそのへんのスピリチュアル的な感覚はないので、そういった方々のご意見とは異なるかもしれません。
自分で祈願するのではなく、ご祈祷を受けたのが良かったのかもしれません。
というのも、宮司さんとか神官さんに祈祷してもらうというのは、その人からして〝利他的な祈り〟になるからです。
このあたりのことは謎。
私も出張鑑定では、いつも近くの神社でお祈りします。
鑑定会が無事に執り行えるように、また来場されるお客様が無事に往来できますように、と。
お客様のお役に立てる鑑定ができますようにと。
これらも、一見自分の仕事のためみたいな印象を与えるかもしれませんが、欲得での願いとは違っていると思われませんか?
同様に、大分前からご神前では、自分が人のため社会のために役立てること、何か必要とされることなどあれば、お使いください、と祈ることもあります。
これが思考という形だけよりも、心からのものになった方が、結果的にですが、仕事も発展しやすいように思います。
自分から離れる。
欲得から離れる。
そういう祈りになればなるほど、それは通じやすくなるし、結果的に自分の循環も良くなる。
そう感じています。
でも、