少し早いですが、前回更新を忘れていましたし(笑)
31日には西宮鑑定会なので、早めにご用意いたしました。
最初に12星座占いの取説とデーカンについてをご一読ください。
上記のリンク記事の内容をご理解の上、この記事をお読みください。
牡羊座 ♈
前月に引き続き好調な月です。
ただし、前月がエネルギッシュであったのに対して、知性とか精神性とか内面の充実に傾いています。
そういう意味では落ち着いた運勢といえるでしょう。
冷静に事態の推移を見守り、分析するような姿勢が幸運を呼びます。
急ぐのはあまりよろしくありません。
転ばぬように杖が必要です。
今年度の夢やプランを思い描き、そのために何が必要か調べたり計画を練ったりすると良いでしょう。
第2デーカンはややストレスが多そう。動きたいのに動けなかったりしてフラストレーションが溜まるかも。焦らずに腰を据えて計画を進めるようにすると良いでしょう。
第3デーカンも焦りは禁物です。
牡牛座 ♉
物事が動き出し好転する月です。
最初は迷いとか不安が大きく足を取ります。
とくに何かを選択しなければならないような傾向が出てくるかも。
しかし、それも関係者でしっかりと話し合ったりすれば解決できます。
そうすると事態が動き出します。
新しい事業や計画が始動するのです。もちろん個人でもそんなプランニングと実行に着手すると良いでしょう。
金運も好調と思われます。
第1デーカンは月の初旬、第2デーカンは月の中旬、第3デーカンは月の下旬あたりでエンジョイできます(多少の時期的な誤差はあります)。
とくに第2デーカンは物事を力強く推し進めることができます。前進の時期です。
双子座 ♊
多少の迷いや不安がありますが、落ち着いた好調さがあります。
特に学業など、精神的頭脳的な面での好調さが目立ちます。
仕事でもより理解が進んだり、役に立つ情報をゲットできます。
時には法律とか、ある種の知識が非常に有益で良い流れを作り出します。
派手ではありませんが、双子座も事態が転換し、回り出すような月です。
年配の落ち着いた人物、知恵を持つ人を頼ってください。
第1デーカンは、とくに知的な発展が望めます。コミュニケーションも活発で、友人との交際などが楽しそうです。
蟹座 ♋
慌てず、静かに待つことが大事。
この月の中で物事を形にしようとか完成させようとか、急がない方がいいでしょう。
むしろ物事が進みにくく、出鼻をくじかれるようなこともあるかもしれません。迷路で行き止まりになって、また戻ってやり直しみたいに。
つまりそのやり直しを織り込んでおけばOKなのです。
どうも打つ手があまりないなあ、というふうに感じやすいでしょう。
そういうときは開き直って、時を待つということも必要です。
とくに第2デーカンは障害に突き当たりやすいかもしれません。相手が男性であることが多いでしょう。しかし、ここは粘り強く行きましょう。
第3デーカンにも初め頃の人は、第2と同じような傾向があるでしょう。
獅子座 ♌
冷静さと直感が大事です。
獅子座は比較的好調なのですが、その好調さは冷静沈着であってこその月です。
勢いや自分のエゴでガッと出ようとすると失敗します。
そしてやり直しや言い訳が必要になってしまいます。
特に仕事での話が多いと思いますが、人によっては学業でそういう経験があるかも。
F1ドライヴァーは勢いで操作して早く走れるのではありません。
極めてデリケートで冷静な操作を繰り替えすることで、マシンを速く走らせます。
そんなクールな自分でいましょう。
クールな自分であれば、これだという直感もひらめきます。
第1デーカンは、忙しそう。合間にちょっとした遠出や旅行などすると吉。
第2デーカンは、ちょっと無理をしすぎるところがあるかも。そのため身体の調子を崩すようなことがないようご注意を。
乙女座 ♍
乙女座もまた、何かの課題、渋滞があった後、好転させる月です。
学校関係者の方、あるいはお子さんが就学中の方などは、やはり学校での問題を感じやすい傾向があります。
主に友人関係ではないかと思われますので、いじめなどであることも考えられます。
学校以外でも、普通に友人関係のことを意識しやすいようです。
とくにルーズなことをしていると問題が起きやすいので、約束や時間などはしっかりと守りましょう。
後で状況が良くなる展開があると思われますので、どちらにしても重大事には至らず、場合によっては未然に防げたりするでしょう。
第1デーカンは月の初旬、第2デーカンは月の中旬、第3デーカンは月の下旬あたりでエンジョイできます(多少の時期的な誤差はあります)。
とくに第2デーカンは物事を力強く推し進めることができます。前進の時期です。
天秤座 ♎
なんだか自信を失いがちなになりやすく、気持ちが落ち込みやすいようです。
不安感からピリピリしてしまい、人間関係の中で意固地になりがちです。
デリケートな感じになってきたら、すぐに胸を開き、心に余裕を持たせましょう。
メンタルな側面が強く出る月ですので、ここは寛容、勇気といったことを心がけ、引きこもらず、人とコミュニケーションを取り、おかしな方向に傾かないようにバランスしましょう。
母親とか母性とか、あるいは人の本能に関わること。
そういったところにも意識が向きやすく、身体の方から整えることが有効です。たとえばアロマとか、エステとか、ヨガなども良いかもしれません。
自分に自信が持てるよう、自分から働きかけましょう。
第2デーカンはとくに家庭内のことに意識が向きやすいようです。気持ちも波立ちやすいので、気分転換を行ってください。
蠍座 ♏
天秤座とよく似たところのある運勢で、やはりメンタルの不安感が強そうです。
ただ、天秤座はこれに仕事が関係しやすい傾向があるようです。
結果が出せなかったり、好ましくない知らせを受けたりといった出来事で、気持ちが落ち込みやすいようです。
大事なのは、小さなことでも良いので、一つ一つをちゃんと終わらせることです。
何もかも完成させるというのは難しいので、手近なところの課題から片付けていきましょう。
そうすると、少しずつ気持ちが上向いてきます。
第2デーカン後半と第3デーカン前半の人は、何事かあっても助けられます。運勢的には過去の清算が良い方へ転換させます。
射手座 ♐
見つめ直す月です。
この月ではうまくいかないことや、先へ進まないことなどを感じやすいようです。
ただ、そうなってしまうことには理由があり、気づきが必要です。
出会いがそれに気づかせてくれることもありそうですが、まずは自分自身を向き合いましょう。
瞑想、あるいは一人になって過ごす時間。
答えが見つけられたときには、はっきりとしたインスピレーションが胸に差すでしょう。
移動や旅行が、良い気分転換にもなるようです。
第1デーカンは、とくに内省的な傾向が強くあり、過去のことをいろいろ思い出しそうです。
思い出の掻きだし、あるいは陰干しといった印象です。
デーカンの区別なしに、全般に飽食傾向?
山羊座 ♑
好調さの影に、ちょっとした罠があります。
足下をよく見ましょう。自分の進むべき方向にちゃんと意識を向け、レーダーを張り巡らしましょう。
この月は、そういった意識が薄くなり、うまくいっている状況に乗っかって、うかつな行動を取りやすいようです。
車でバックしているときに、「なにもないだろう」と思ってちゃんと後方確認しないようなものです。
そのためにしなくていい失敗をしてしまいます。
あるいは「このくらいどうってことない」という安直な思いで、不正なことをするとか。これは特に異性関係やお金のことで出そうです。
そこさえ注意できれば、むしろ好調な流れのまま過ぎていくでしょう。
自分のコントロールで、かなり大きく違ってくる月でもあります。
第1デーカンは月の初旬、第2デーカンは月の中旬、第3デーカンは月の下旬あたりでエンジョイできます(多少の時期的な誤差はあります)。
第2デーカンはうかつな行動を取りやすく、セルフコントロールの重要性が高いと思われます。
水瓶座 ♒
全般に好調な月のようですが、たとえば遊びがちょっと過ぎたり、出費が多くなったり、そんな傾向はあるかもしれません。
自分へのご褒美程度なら、何の問題もないでしょう。
実際、この月は淡々とした印象で、あまり大きな動きはありません。
何か仕事やプライベートで、うまくいかないことがあったとしても、それを見つめ直し、最終的にはうまく帳尻を合わせることができます。
無理がないという感じです。
最初身体の調子を悪くして、反省し、後半には整えてくる、みたいな流れの人もいるでしょう。
第1デーカンの人は、面倒を見てやらないと行けないような人間関係があるかもしれません。あるいは、やたらと食べることに気持ちが向く場合もありそう。
魚座 ♓
徹頭徹尾、清く正しくいてください。
4月の魚座には、仕事や家族のことで問題が生じやすいようです。
この月はできれば、何もしないのがよさそう。何にせよ、自分方種はまかない。
状況を見守るのが一番賢明な対処になりそうです。
恋愛や金運もここは慎重に。
旅行もしない方が良いと思われますが、こういうときに仕事で出張せざるを得なかったりすると、そこでいやな思いをしたり。
この月の運勢を、できるだけ穏便に済ませることは、どこからも突っ込まれないようにしておくことに限ります。
はたかれてもほこりが出ない。そういう時間の過ごし方をしましょう。
どのデーカンも、何か主張したり、それぞれの正義感のようなものがぶつかり合ったりという傾向が出るかもしれません。
ここでは戦わない選択も必要です。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
ご訪問ありがとうございます。
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amebaのZEPHYRとは姉妹ブログになっております。
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として
心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。
2018年3月29日木曜日
2018年3月27日火曜日
4月の日本と全体傾向
メール鑑定について、お問い合わせがございました。
再開が延び延びになっており、誠に申し訳ありません。
ここまでにどうしても片付けなければならない仕事のいくつかはクリアできたのですが、最期の一つが残されております。
これをやり抜いたら、再開できるのですが、あとひと月ほどはお待ちいただかなければならないと思います。
お急ぎの方は電話やスカイプなどの鑑定をご利用いただければ幸いに存じます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
3月の日本と全体傾向で申し上げております天王星の傾向は、もちろん継続中です。ご参照ください。
とくに4月は、天王星が刺激されるポイントがありますので、顕著に出る可能性があります。特に月中頃の新月前後が、一つの強い刺激ポイントです。
現状の情勢だと北朝鮮のミサイルの懸念は薄れたと判断できます。
反面、気象や地震に関しては懸念が増します。
プラス面でお伝えしていることも出てくるのではないかと思っています。
4月の日本は、3月の流れを継続しています。
というよりも、さらに厳しい側面があります。
この時点で政権がひっくり返るような出来事があるという印象ではありませんが、なにかまだありそうに思います。
これは天王星的なトラブル、ショックを伴う出方になるかもしれません。
現在国会で問題になっているような事柄か、それ以外かということまでは特定できませんが、秘密の発覚というようなことがありそうです。
これは国会や政府、省庁に関することばかりではなく、大きな企業や自治体の問題なのかもしれませんが、はっきり国民が「大きな出来事」と認識するような内容ではないかと思います。
この出来事は、情報の漏洩とか、スキャンダルという形を取ることもあります。
「天からのもの」にも注意すべきなのは、天王星情報と同じなのですが、ふとこれは中国の衛星「天宮1号」かもしれないということを考えました。
この衛星に搭載されて残留している燃料は毒性が高く、非常に有害であるという情報もあります。
天宮1号の落下はもうすぐと予測しているところが多く、どうもこの4月である可能性が高いような……
この情報には、皆さん、注意していただけたらと思います。
ちなみに天宮1号は大気圏突入で燃え尽きず、落下する可能性についても言及されています。
日本に限定せず、火星が非常に強くアピールします。
それはおそらく4月に入ってすぐ、半ばくらいまでではないかと思います。
日本においては、交通機関や自動車の事故が一番かと思われますが、このところ事故の多い米軍や自衛隊も懸念されます。
しかし、この火星はどちらかというと「戦争」的な側面を強く持ちます。
すでに戦火のあるところでの激化が一番起きやすいものであろうと思います。
テロで建物が損傷するような事態は、それ以外の地域でも起きえます。
どことは限定できませんが、教会など宗教的な施設が火星の舞台とならないことを祈ります。
新月(16日)が生じ、次の17日にキロンが牡羊座にイングレス。
4月の様々なイベントは、ここを中心に起きやすいと見ています。「イベント」というと、何か楽しいイメージがありますが、占星術では何かの出来事が起きたときのチャートを「イベント・チャート」といいます。
それには吉凶の区別がありません。
悲しむべきことが少ないことを祈ります。
キロンの癒やしが多くの方に降り注ぐことを祈ります。
ここはとても重要。
また新月メッセージには書きますが、春分以降、この次の新月はこの地球のすべての人にとって重要だと考えています。
いわゆるアセンションというものについては、私は理性的な対応をしています。何かスイッチが押されて自動的に地球の次元が上昇するというような意味でのアセンションはないと考えています。
しかし、キロンが人の意識上昇を担っているのは確かで、それは個人個人の許しや癒やし、学びや満たしによって起きます。
そのすべてにキロンは関わります。
そのキロンが春分点に接触するこの時期は、いわゆるアセンション的な性質を持つ時期になるはずです。
ただ、それはおそらく神様がスイッチを押すからではなく、一人一人が幸せになろうとすることから生じます。
今を大切に。
隣にいる人を大切に。
隣に人がいなければ、自分自身を許して褒めて、愛でてください。
そのためにあなたの4月があります、きっと。
きっと。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
再開が延び延びになっており、誠に申し訳ありません。
ここまでにどうしても片付けなければならない仕事のいくつかはクリアできたのですが、最期の一つが残されております。
これをやり抜いたら、再開できるのですが、あとひと月ほどはお待ちいただかなければならないと思います。
お急ぎの方は電話やスカイプなどの鑑定をご利用いただければ幸いに存じます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
3月の日本と全体傾向で申し上げております天王星の傾向は、もちろん継続中です。ご参照ください。
とくに4月は、天王星が刺激されるポイントがありますので、顕著に出る可能性があります。特に月中頃の新月前後が、一つの強い刺激ポイントです。
現状の情勢だと北朝鮮のミサイルの懸念は薄れたと判断できます。
反面、気象や地震に関しては懸念が増します。
プラス面でお伝えしていることも出てくるのではないかと思っています。
4月の日本は、3月の流れを継続しています。
というよりも、さらに厳しい側面があります。
この時点で政権がひっくり返るような出来事があるという印象ではありませんが、なにかまだありそうに思います。
これは天王星的なトラブル、ショックを伴う出方になるかもしれません。
現在国会で問題になっているような事柄か、それ以外かということまでは特定できませんが、秘密の発覚というようなことがありそうです。
これは国会や政府、省庁に関することばかりではなく、大きな企業や自治体の問題なのかもしれませんが、はっきり国民が「大きな出来事」と認識するような内容ではないかと思います。
この出来事は、情報の漏洩とか、スキャンダルという形を取ることもあります。
「天からのもの」にも注意すべきなのは、天王星情報と同じなのですが、ふとこれは中国の衛星「天宮1号」かもしれないということを考えました。
この衛星に搭載されて残留している燃料は毒性が高く、非常に有害であるという情報もあります。
天宮1号の落下はもうすぐと予測しているところが多く、どうもこの4月である可能性が高いような……
この情報には、皆さん、注意していただけたらと思います。
ちなみに天宮1号は大気圏突入で燃え尽きず、落下する可能性についても言及されています。
日本に限定せず、火星が非常に強くアピールします。
それはおそらく4月に入ってすぐ、半ばくらいまでではないかと思います。
日本においては、交通機関や自動車の事故が一番かと思われますが、このところ事故の多い米軍や自衛隊も懸念されます。
しかし、この火星はどちらかというと「戦争」的な側面を強く持ちます。
すでに戦火のあるところでの激化が一番起きやすいものであろうと思います。
テロで建物が損傷するような事態は、それ以外の地域でも起きえます。
どことは限定できませんが、教会など宗教的な施設が火星の舞台とならないことを祈ります。
新月(16日)が生じ、次の17日にキロンが牡羊座にイングレス。
4月の様々なイベントは、ここを中心に起きやすいと見ています。「イベント」というと、何か楽しいイメージがありますが、占星術では何かの出来事が起きたときのチャートを「イベント・チャート」といいます。
それには吉凶の区別がありません。
悲しむべきことが少ないことを祈ります。
キロンの癒やしが多くの方に降り注ぐことを祈ります。
ここはとても重要。
また新月メッセージには書きますが、春分以降、この次の新月はこの地球のすべての人にとって重要だと考えています。
いわゆるアセンションというものについては、私は理性的な対応をしています。何かスイッチが押されて自動的に地球の次元が上昇するというような意味でのアセンションはないと考えています。
しかし、キロンが人の意識上昇を担っているのは確かで、それは個人個人の許しや癒やし、学びや満たしによって起きます。
そのすべてにキロンは関わります。
そのキロンが春分点に接触するこの時期は、いわゆるアセンション的な性質を持つ時期になるはずです。
ただ、それはおそらく神様がスイッチを押すからではなく、一人一人が幸せになろうとすることから生じます。
今を大切に。
隣にいる人を大切に。
隣に人がいなければ、自分自身を許して褒めて、愛でてください。
そのためにあなたの4月があります、きっと。
きっと。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月25日日曜日
とろ鮪!
昨夜は、先日観た「裸に勾玉」に出演されていた役者のKさんと飲み。
ちょっといろいろといきさつがあって、私は一年以上も、Kさんから高性能一眼レフ・デジカメを貸していただいていました。
当時、Kさんは私が台本を書いた市民創作ミュージカルに出ていたのですが、その練習中にカメラの話をしていたら、なんと「どうぞ、おもちゃです」といって貸してくださったのです。
実際、このカメラ、お役に立ってくれました。
昨年のワークブック作成の時など。
Kさんも忙しそうだし、「裸に勾玉」を終えたところでお誘いしたのです。
お刺身の大鉢!
まるで縄文土器かというような大きな鉢に、ドカンとのっています。大トロ、中トロ、赤身、スズキに鯛!
なるほど、納得。
鮪って、果てしなくうまい魚だな~。
だし巻き卵。
なんと卵を溶いて、醤油を加え、それにつけて食べる。
卵を卵につけて食べるのか??
でも、これはこれでおいしい。
メニューにあったので、馬刺しを注文。
これおいているところは比較的少ない…かな?
私、馬刺し好きなんですよ。
思ったよりも断然柔らかで、臭みなんかも全くなし。
力がわいてきます。
牛肉の吊るし炙り。
熱々ではなく、本当につるして炙っているんでしょうね。
ほぼほぼレア。
お肉、ヤワラカ。
かいわれのサラダ。
牛タン。
来れもまた卵を溶いて、タレと一緒につけて食べます。
卵、好きやな、このお店。
ま、これもおいしかったですけどね!
ほかにもあれこれ頼み、演劇の話や台本の話で盛り上がり。
これからのこともちらっと。
うーん。
頑張るしかない。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月24日土曜日
所ジョージさん
ちょっと前のことになりますが、何かの番組に所ジョージさんが出演していて、自身のことがあれこれ語られるような場面がありました。
それを見ていた娘が、
この人、水瓶座じゃね?
と言い出しました。(←この人も水瓶座)
早速調べてみると、確かに水瓶座。
しかも、出生時間が判明している情報がネット上にありました。
所さんといえば、歌手、コメディアン、俳優、ラジオのパーソナリティとか司会とか、とにかく多彩な顔を持つ。
多彩な趣味人としても知らせていて、何につけても楽しむ。
それもそれを行うとか、できあがるプロセスを楽しんじゃう。
そういうキャラクターであることは前に何かで聞いていたのですが、番組の中でそういう側面のユニークさが語られているうちに、娘は「水瓶座だ」と直感したようです。
確かに個性的ですよね。
独自の考え方を持ってらっしゃる。
私はこの人の飄々としたところが好きだったのですが、今回、記事にしてみようと思って調べたら、なんかご結婚も婿養子に入ってらっしゃる。
それも「婿養子だったら」といわれ「はい、なります」みたいな即決。
面白い。
12ハウス太陽がそれっぽいか。
生き方が面白い。
楽しんでいることが、いろいろな活動ににじみ出てくるんでしょうね。
7ハウスに冥王星がドカンと居座って、1ハウスの月や水星とオポジションですが、別に結婚生活に問題があるようでもない。
きっとこの冥王星は、宿命そのもので、それを受け入れる構造なんだろうな。
この人の個性的なのは、1ハウスの水瓶座・月&水星のせいも大きいけれど、たぶん蟹座・天王星と水瓶座・月のミューチャル・レセプションが、とても大きな要因。
これ、見つけて、なるほどと笑いました。
何でも楽しむ。
プロセスを楽しむ。
気張らず、素の自分で楽しい。
うーん。
ちょっと憧れる人です。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
それを見ていた娘が、
この人、水瓶座じゃね?
と言い出しました。(←この人も水瓶座)
早速調べてみると、確かに水瓶座。
しかも、出生時間が判明している情報がネット上にありました。
所さんといえば、歌手、コメディアン、俳優、ラジオのパーソナリティとか司会とか、とにかく多彩な顔を持つ。
多彩な趣味人としても知らせていて、何につけても楽しむ。
それもそれを行うとか、できあがるプロセスを楽しんじゃう。
そういうキャラクターであることは前に何かで聞いていたのですが、番組の中でそういう側面のユニークさが語られているうちに、娘は「水瓶座だ」と直感したようです。
確かに個性的ですよね。
独自の考え方を持ってらっしゃる。
私はこの人の飄々としたところが好きだったのですが、今回、記事にしてみようと思って調べたら、なんかご結婚も婿養子に入ってらっしゃる。
それも「婿養子だったら」といわれ「はい、なります」みたいな即決。
面白い。
12ハウス太陽がそれっぽいか。
生き方が面白い。
楽しんでいることが、いろいろな活動ににじみ出てくるんでしょうね。
7ハウスに冥王星がドカンと居座って、1ハウスの月や水星とオポジションですが、別に結婚生活に問題があるようでもない。
きっとこの冥王星は、宿命そのもので、それを受け入れる構造なんだろうな。
この人の個性的なのは、1ハウスの水瓶座・月&水星のせいも大きいけれど、たぶん蟹座・天王星と水瓶座・月のミューチャル・レセプションが、とても大きな要因。
これ、見つけて、なるほどと笑いました。
何でも楽しむ。
プロセスを楽しむ。
気張らず、素の自分で楽しい。
うーん。
ちょっと憧れる人です。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月23日金曜日
身体あってこそだ
ちょっと前のことになりますが。
さる方とランチに行きました。
以前から鑑定をさせていただいている方です(この記事はご本人の許可をいただいて書いております)。
その方は女性で、じつは昨日の記事のうちの氏神様、山村神社にもご寄付くださっている方なのですが。
県内ですが、大分離れた土地からわざわざお見えになりました。
ちょっと前に神社にもお参りくださり、そのお参りの日にはお休みで行けなかったお店に昼食に行くというご連絡がありました(お参りの日は、私は仕事の都合でお会いできませんでした)。
ランチの日は、お昼頃なら時間があったので、私もご一緒することにしたのです。
日頃の御礼も申し上げたかったですし、なによりも彼女は昨年、心臓の手術を受けられていました。
術後は良好みたいで、とても元気になられていました。
山村神社に参拝に来ていただいたというのも、手術成功の祈願をさせていただいていて、それがうまくいったこともあっての御礼参りでもあったのです。
すごく元気になられていました。
そんな彼女と梟亭(ふくろうてい)に行きました。
これ、すごいでしょ。
なんか、戦艦みたいな……いかつい外観です。
しかも場所が、我が家にも勝るとも劣らない山の中。
標高はうちと変わらないと思いますが、お店に登っていく最後の坂なんか、車が登るのか不安になるほどの急斜面。
その上に、どーんと建っているのです。
もう半端ない「隠れ家」です。
場所は児島の白尾というところなんですが、まあ、感覚的にはうちとおなじ「由加山のエリア」です。
この梟亭、うちからは(車なら)すぐ近くなんですが、今までに二度しか利用したことがありません。
ずっと昔、ホテルの仲間と。
あと、一度、身内と。
奥さんとは一度も行ったことがないし、前の二回はいずれも夜だったので、外観もいまいちよくわかっていなかった。
このお店、開業してからもうかなりたつのですが、「こんなところでやってお客さん来るの?」と思ったものです。
しかし、ずっと営業を続けているもの、やはりこのお店の「料理」「味」「鶏」が良いからなのでしょう。
地鶏のお店なのです。
いろいろお昼もあるので迷いましたが、ランチは親子丼が有名。
それを頼みました。
さつま揚げがまず来ました。
熱々でうまい。
お豆腐。
これ自家製っぽいですね。
すごくしっかりしっとりとしたお豆腐です。
地鶏の唐揚げとお味噌汁。
香の物。
そして、なんといっても、親子どーん!
ちょっとちょっと
ちょっとちょっと見てください、このふわとろ。
もう目にしただけで、ジュルっとなります。
お味は濃いめ。
やはり鶏がいいですね。
卵もお肉も。
最強の親子丼ですよ、これは。
唐揚げもウメー!
いや、今度、奥さんと一緒に来よう。
いろいろとお話を伺いながら、お昼のひとときを過ごしました。
彼女は手術をお受けになって、とてもアクティブになっていました。
実際、ご自身でも「前はすごく悲観的なところがあったが、そういう落ち込みがあまりなくなった」とおっしゃってました。
心臓は臓器の中でも、当たり前だけどとても重要。
そして占星術では、心臓は太陽。
要するに彼女は太陽コンディションに問題があったわけなのですが、それが改善された。
当然、太陽は人生の源ですから。
彼女の人生もこれからきっと良い方へ変わっていくのだろうと感じました。
心と体はつながっている。
私たちは運勢の不調とか好転とか、そういうことを考えるときに、ホロスコープやその人のメンタル、仕事とか生活の仕方などについ目が行きがちですが。
何かを好転させるためには、体が根本的に大事なのだということも、改めて教えられました。
体あってこその私たち。
私もジョギングするようになって、いろいろ良い面を実感しておりますよ。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
さる方とランチに行きました。
以前から鑑定をさせていただいている方です(この記事はご本人の許可をいただいて書いております)。
その方は女性で、じつは昨日の記事のうちの氏神様、山村神社にもご寄付くださっている方なのですが。
県内ですが、大分離れた土地からわざわざお見えになりました。
ちょっと前に神社にもお参りくださり、そのお参りの日にはお休みで行けなかったお店に昼食に行くというご連絡がありました(お参りの日は、私は仕事の都合でお会いできませんでした)。
ランチの日は、お昼頃なら時間があったので、私もご一緒することにしたのです。
日頃の御礼も申し上げたかったですし、なによりも彼女は昨年、心臓の手術を受けられていました。
術後は良好みたいで、とても元気になられていました。
山村神社に参拝に来ていただいたというのも、手術成功の祈願をさせていただいていて、それがうまくいったこともあっての御礼参りでもあったのです。
すごく元気になられていました。
そんな彼女と梟亭(ふくろうてい)に行きました。
これ、すごいでしょ。
なんか、戦艦みたいな……いかつい外観です。
しかも場所が、我が家にも勝るとも劣らない山の中。
標高はうちと変わらないと思いますが、お店に登っていく最後の坂なんか、車が登るのか不安になるほどの急斜面。
その上に、どーんと建っているのです。
もう半端ない「隠れ家」です。
場所は児島の白尾というところなんですが、まあ、感覚的にはうちとおなじ「由加山のエリア」です。
この梟亭、うちからは(車なら)すぐ近くなんですが、今までに二度しか利用したことがありません。
ずっと昔、ホテルの仲間と。
あと、一度、身内と。
奥さんとは一度も行ったことがないし、前の二回はいずれも夜だったので、外観もいまいちよくわかっていなかった。
このお店、開業してからもうかなりたつのですが、「こんなところでやってお客さん来るの?」と思ったものです。
しかし、ずっと営業を続けているもの、やはりこのお店の「料理」「味」「鶏」が良いからなのでしょう。
地鶏のお店なのです。
いろいろお昼もあるので迷いましたが、ランチは親子丼が有名。
それを頼みました。
さつま揚げがまず来ました。
熱々でうまい。
お豆腐。
これ自家製っぽいですね。
すごくしっかりしっとりとしたお豆腐です。
地鶏の唐揚げとお味噌汁。
香の物。
そして、なんといっても、親子どーん!
ちょっとちょっと
ちょっとちょっと見てください、このふわとろ。
もう目にしただけで、ジュルっとなります。
お味は濃いめ。
やはり鶏がいいですね。
卵もお肉も。
最強の親子丼ですよ、これは。
唐揚げもウメー!
いや、今度、奥さんと一緒に来よう。
いろいろとお話を伺いながら、お昼のひとときを過ごしました。
彼女は手術をお受けになって、とてもアクティブになっていました。
実際、ご自身でも「前はすごく悲観的なところがあったが、そういう落ち込みがあまりなくなった」とおっしゃってました。
心臓は臓器の中でも、当たり前だけどとても重要。
そして占星術では、心臓は太陽。
要するに彼女は太陽コンディションに問題があったわけなのですが、それが改善された。
当然、太陽は人生の源ですから。
彼女の人生もこれからきっと良い方へ変わっていくのだろうと感じました。
心と体はつながっている。
私たちは運勢の不調とか好転とか、そういうことを考えるときに、ホロスコープやその人のメンタル、仕事とか生活の仕方などについ目が行きがちですが。
何かを好転させるためには、体が根本的に大事なのだということも、改めて教えられました。
体あってこその私たち。
私もジョギングするようになって、いろいろ良い面を実感しておりますよ。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
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2018年3月22日木曜日
神社清掃と春の訪れ
この前の日曜日は、氏神様のお掃除の日でした。
時々、掃除はしているのですが。
声をかけたけれど、出てきたのは私を入れて3人だけ…(^_^;)
ま、しゃーないですね。
今回のはしごをかけ、高所恐怖症のワタシがおっかなびっくり屋根へ。
頑張って積もった枯れ葉や枝を掃き落とします。
こわい~~~。
昨年、吹き替えたばかりの本殿の屋根はとてもキレイ!
よかったよかった。
この日は、もう一つ、やろうと思っていたことがありました。
それは、境内のコンクリートの補修です。
これなんか、神社に上がる階段の脚があった部分なんですが、地面が露出。
そのため、長い間に階段が腐ってきて、ぼろぼろになってしまい、それは今我が家の倉庫にあります。
材料は仕入れているので、この後、自分でなんとか階段を制作しようと思っています。
あ、ちなみに屋根の葺き替えは、神社固有の資産でまかないましたが、こういった細々とした補修や維持管理は、善意の方のご寄付でさせていただいております。
ありがとうございます。
この場を借りて、深く御礼申し上げます。
市販のコンクリート材を買ってきていたので、その場で混ぜ、埋めます。
素人仕事でちょっとブサイクなのですが。(笑)
ほかにも、とても大きなヒビがありますので、これも埋めました。
そうして、お掃除を終えたのです。
階段を作成できたら、今コンクリートブロックをおいてあるあたりに据え付ける予定。
ちょっと寒さが戻ってしまいましたが。
自宅の周辺は春が訪れてきている感があります。
サクランボの木。
梅の花。
さあ、今日も頑張ろう。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
時々、掃除はしているのですが。
声をかけたけれど、出てきたのは私を入れて3人だけ…(^_^;)
ま、しゃーないですね。
今回のはしごをかけ、高所恐怖症のワタシがおっかなびっくり屋根へ。
頑張って積もった枯れ葉や枝を掃き落とします。
こわい~~~。
昨年、吹き替えたばかりの本殿の屋根はとてもキレイ!
よかったよかった。
この日は、もう一つ、やろうと思っていたことがありました。
それは、境内のコンクリートの補修です。
そのため、長い間に階段が腐ってきて、ぼろぼろになってしまい、それは今我が家の倉庫にあります。
材料は仕入れているので、この後、自分でなんとか階段を制作しようと思っています。
あ、ちなみに屋根の葺き替えは、神社固有の資産でまかないましたが、こういった細々とした補修や維持管理は、善意の方のご寄付でさせていただいております。
ありがとうございます。
この場を借りて、深く御礼申し上げます。
市販のコンクリート材を買ってきていたので、その場で混ぜ、埋めます。
素人仕事でちょっとブサイクなのですが。(笑)
そうして、お掃除を終えたのです。
階段を作成できたら、今コンクリートブロックをおいてあるあたりに据え付ける予定。
ちょっと寒さが戻ってしまいましたが。
自宅の周辺は春が訪れてきている感があります。
サクランボの木。
梅の花。
さあ、今日も頑張ろう。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月21日水曜日
キロンの春分チャートの下で
ここしばらく、意識をごっそり「桜餅」に持って行かれていました。
とりあえず、ぎりぎり。
この新月と春分に間に合った。
間に合わせようというつもりではなかったのですが、ここで書かされたというのか、そんな感じです。
あ、「桜餅」は小説の方です。食べるやつじゃありませんよ。(笑)
昨日の朝、とりあえずUPしましたが、昨日のうちに細かい校正、修正加筆を行い、完成させました。
結果的にですが、この新月と春分でこれをブログ上にUPできたのは、良かったのかなとか思っています。
なぜなら、この新月と春分の両チャートは、「キロンの新月」「キロンの春分」というべきものだからです。
「キロン物語」をいくつか今年書こうと、漠然と考え始めたのが、どのへんだったかな。2月?
「桜餅」の構想は比較的早い段階からできあがっていたのですが、最初はちょっと迷いがありました。
踏ん切りがつきにくかったというのか。
それがここしばらくで解放されたという感じです。
物語としてのメッセージやどんなキイワードを読み取っていただくかというのは、もう読まれた個人の方それぞれなので、何も申し上げることはありません。
しかし、一つだけ言えるのは。
主人公の女性と聡史。
この二人は物語の中で、ちゃんと生きていました。
作者の意図を超えた反応や発言をしだし、それが結果的に物語をちゃんと完成させてくれました。
あ、そうそう。
じつは、これまでの慣例的に、物語の中にある登場人物を出そうと思っていたのですが、これも彼らに却下されました。(笑)
「いらんだろ、そんなやつ」みたいな?
たしかにいらない。
ハイヤメマス。
自分自身、書くことで癒やされた面もあります。
画像はアマテルで作成→高機能 占星術ソフト・アマテル
今日の1時15分頃には、春分チャートに切り替わっています。
この解読情報は2018年の日本と東アジア情勢などの中に閉じ込めてあります。
なので、ここで再度の解説はいたしません。
春分図に切り替わる以前に、春分図の影響は出るということも、ちょっと前に申し上げております。
キロンはこのチャートを見ていただいたらわかるように、春分点に接触しております。
この構造は今年と来年、非常に強い。
キロン・イヤーなのです。
占星術ソフトによっては多少の計算誤差もあるかもしれませんが、キロンが牡羊座0度にぴったりなるのは、4月17日の夕方です。
キロンは多くの人を導き、癒やし、意識の上昇を手伝うでしょう。
空を見上げ、手を差し伸べましょう。
心を翔ばしましょう。
この一年が、あなたの癒やしと解放になりますように。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
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とりあえず、ぎりぎり。
この新月と春分に間に合った。
間に合わせようというつもりではなかったのですが、ここで書かされたというのか、そんな感じです。
あ、「桜餅」は小説の方です。食べるやつじゃありませんよ。(笑)
昨日の朝、とりあえずUPしましたが、昨日のうちに細かい校正、修正加筆を行い、完成させました。
結果的にですが、この新月と春分でこれをブログ上にUPできたのは、良かったのかなとか思っています。
なぜなら、この新月と春分の両チャートは、「キロンの新月」「キロンの春分」というべきものだからです。
「キロン物語」をいくつか今年書こうと、漠然と考え始めたのが、どのへんだったかな。2月?
「桜餅」の構想は比較的早い段階からできあがっていたのですが、最初はちょっと迷いがありました。
踏ん切りがつきにくかったというのか。
それがここしばらくで解放されたという感じです。
物語としてのメッセージやどんなキイワードを読み取っていただくかというのは、もう読まれた個人の方それぞれなので、何も申し上げることはありません。
しかし、一つだけ言えるのは。
主人公の女性と聡史。
この二人は物語の中で、ちゃんと生きていました。
作者の意図を超えた反応や発言をしだし、それが結果的に物語をちゃんと完成させてくれました。
あ、そうそう。
じつは、これまでの慣例的に、物語の中にある登場人物を出そうと思っていたのですが、これも彼らに却下されました。(笑)
「いらんだろ、そんなやつ」みたいな?
たしかにいらない。
ハイヤメマス。
自分自身、書くことで癒やされた面もあります。
画像はアマテルで作成→高機能 占星術ソフト・アマテル
今日の1時15分頃には、春分チャートに切り替わっています。
この解読情報は2018年の日本と東アジア情勢などの中に閉じ込めてあります。
なので、ここで再度の解説はいたしません。
春分図に切り替わる以前に、春分図の影響は出るということも、ちょっと前に申し上げております。
キロンはこのチャートを見ていただいたらわかるように、春分点に接触しております。
この構造は今年と来年、非常に強い。
キロン・イヤーなのです。
占星術ソフトによっては多少の計算誤差もあるかもしれませんが、キロンが牡羊座0度にぴったりなるのは、4月17日の夕方です。
キロンは多くの人を導き、癒やし、意識の上昇を手伝うでしょう。
空を見上げ、手を差し伸べましょう。
心を翔ばしましょう。
この一年が、あなたの癒やしと解放になりますように。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
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桜餅 後編ーキロンの物語1ー
面会日の二日前。
あの日がやってきた。
3.11――
派遣で勤務していた会社のオフィスもパニックになった。余震の続く中、背筋が凍るような情報が次第に入ってきて、帰宅命令が出された。個別の会社の事情などよりも、この国が根底的に覆るような大きな危機感が直感的にあった。
地震発生直後から、わたしは幾度も聡史の携帯電話にかけていたが、まったくつながらなかった。メールを送っていたが、それも届いているのかどうかもわからなかった。
聡史と娘のことが心配でならなかった。
交通網が麻痺した中、誰もがそうであったようにわたしはアパートへ歩いて帰った。踵のあたりがすりむけ、痛みに耐えながら歩き続けた。
聡史の実家は、アパートからさらにその先にある。だから一度アパートに帰ってから、そのまま向かうつもりだった。
時折襲ってくる余震が怖かった。それ以上に聡史と娘のことが案じられてならなかった。歩きながら幾度もメールをしていた。
今、アパートに戻っている途中です。心配です。ごめんなさい。後からそちらへ伺ってもいいですか。
しかし、アパートに戻れたのは深夜だった。
いつも出かけるときに玄関に置く写真立てが下に落ちていた。ガラスが割れていた。胸騒ぎがする。
そのとき、携帯電話が鳴った。メールの返事がようやく来た!
無事です。亜弥も大丈夫。来てください。
ほっとした。それにうれしかった。「来てください」という表現に――。
わたしは動きやすい服に着替え、ぼろぼろの古いスニーカーに履き替えた。そして、再び歩き出した。
離婚後、わたしは自分の実家を出た。あれだけのことをしでかして、両親に甘えて過ごすなど、とてもできなかったし、聡史の実家の比較的近くで生活をしたかった。あまり近くではきっと嫌がられる。そう思い、駅二つ離れたところにアパートを借りたのだ。
深夜の道は、あり得ないほど人であふれていた。
徒歩で帰宅する人々に混じって、聡史の実家にたどり着いたのは、午前3時頃だった。が、家を前にしてわたしは体がこわばってしまった。
子供との面会の時は、たいていどこか外で待ち合わせる。自分の不貞発覚以来、この実家を訪ねるのは初めてだった。
どの面を下げて会えるというのだろう。離婚が決定的になって、両家の話し合いが行われ、そのときにご両親に会ったきりだ。聡史のお母様の鋭い侮蔑に満ちた言葉や眼差しが、今でも心に焼き付いている。
胸がドキドキした。
無事が確認できたのだから、ここまで来る必要はなかったのではないか。訪ねていったら、不愉快に思われるのではないか。いや、そうに決まっている。来るべきではなかったのではないか。
迷っていると、ふいに玄関の扉が開いた。
聡史だった。彼はわたしを見つけると、ほっとした表情を浮かべた。
「ああ、着いたんだね。中へ入って」
心配で何度か外の様子をうかがっていた、ということだった。
「い、いいかな」
「もちろんだよ。さあ」
非常時でなければ、敷居をまたぐことはなかっただろう。
リビングにご両親がいた。慄然とせざるを得ない光景を幾度も映し続けるテレビの画面を見入っていたが、わたしが入っていくと気づいた。
ああ、とお母様はわたしの名を呼び、立ち上がった。
「来れたの! よかった。大丈夫だった?」
手を差し伸べられ、腰から砕けそうなほど安堵した。
「はい。ありがとうございます。あの、こんなときなんですが、来てしまってごめんなさい」
「歩いてきたのかね。いやまあ、そうだろうな。疲れたろう」
と、お父様も気遣ってくださった。
「亜弥は……?」
「今は寝てる。ただ余震を怖がって、何度も起きてきた。僕らも眠れなくてね」
「様子を見に行って、いい?」
「ああ、こっちだ」
案内された部屋で亜弥は眠っていた。寝顔なんて見るの、いつ以来だろう。閉じたまぶたや鼻筋にかけて、ますます聡史に似てきた。
つい、そっと髪に触れた。
ずしっという響きとともに、また余震がやってきた。かなり大きい。
ぱちっと亜弥が目を開けた。おびえた表情の後、すぐにわたしに気づいた。
「ママ?」
「うん、ママだよ」
ママだ、ママだ、といって亜弥は両手を伸ばしてきた。わたしは思わず娘を抱きしめた。涙があふれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
娘にささやいた。
「ママ、ここにいて」
「うん。いるよ」
しばらくそばにいた。娘は寝息を立て始めた。
ずっと聡史は、同じ部屋の中で見守ってくれていた。
眠りに落ちたことを確認して、わたしは立ち上がり、聡史に頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたや亜弥の顔を見て、安心しました。帰りますね」
「今日はもう泊まっていったら」
「え?」
「まあ、泊まるっていっても、もう未明だけど。今日は土曜日だし、電車とか交通機関がもうちょっと正常になるまでいたら?」
「でも、ご両親に申し訳なくて……」
「心配ないよ。――ああ、少し話、できないかな」
わたしは戸惑いながら、「はい」と答えた。
聡史の書斎に案内された。そのとき、足を引きずっているのを見られてしまった。
「どうしたの?」
「あ、歩きすぎて、ちょっと……」
「血が出てない? ああ、そこで待っていて」
大学の交際時代に幾度か訪れたことがあった。聡史の書斎には、すごくたくさんの蔵書がある。わたしには理解できなさそうな科学や宇宙の本がたくさんあるし、小説も書棚をびっしりと埋めている。
落ち着く感じがした。
聡史はすぐに消毒液と大ぶりなガーゼ付き絆創膏を持ってきてくれた。
「出して」
「あの、自分でします。ありがとう」
そんなことまで、とてもしてもらえなかった。
消毒液を返して、あらためて礼を言った。
そういう人だった――と改めて思った。当たり前にわたしの些細な変化や表情に気づいて、「だいじょうぶ?」とか「どうしたの?」とか言ってくれる人だった。
わたしが浮気に走った頃も、それがなくなったわけではなかった。ただ、恋人時代や新婚時代のようにわたしが新鮮に感じなくなっていただけ、彼の仕事のために頻度が少なくなっていたというだけ。
「あの、話って……」と、切り出した。
聡史は悩ましい表情をしていた。いい出しにくいことを抱えているように見え、不安になった。もう面会させてもらえないとか、そんな話か――
あるいは、聡史が誰かと再婚するとか。
それは大いにあり得ることで、いつも不安に思っている。そうなったときには、わたしももうこんなふうには関われないのではないかとも。
「こんなタイミングでなんなんだけど、復縁してもらえないかな」
え――?
わたしは耳を疑った。
「もし君がいやでなければ――それと、たとえば君に誰かお付き合いしている人とかいなければ」
あまりにも唐突すぎて、頭で言葉が理解できなかった。嘘ではない。本当に狼狽してしまってわからなかったのだ。
「え? え? ごめんなさい。もう一度言って――」
「だから、よかったら、もう一度結婚してほしい」
「…………」
「だめかな」
ようやく意味が体に入ってきた。その言葉は、この二年半、わたしが心底望んでいたものだった。誰もが思うだろう。そんな言葉をかけてもらって、その瞬間にわたしが小躍りしなかったのはおかしいと。
でも、なぜかそうはならなかった。
「ど、どうして……?」
「ちょっと前から考えていて、じつは明後日、話そうと思っていたんだ。ほら、1月にポリープの手術したっていったよね。そのときに、いろいろ思ったんだ。ああ、それに……こんなことが起きて、今の亜弥の様子を見て、よけいにね」
涙が勝手に、どんどん頬を伝って落ちるのがわかった。だけど、わたしは馬鹿みたいにずっと聡史の顔を、目を、見つめていた。やがてそれは潤んで見えなくなってしまい、手でこすって、それでもなお、わたしは見つめ続けていた。これは夢? 本当のことなの?
「あの頃、僕もいけなかった。僕は頭でいろいろ考えて、先々のことまで計画するのが好きなのは知ってるだろ」
うん、と機械的にうなずいた。涙がバラバラとこぼれた。
「何歳までにどうなって、いつ頃には家を建ててとか。そんな自分の考えにがんじがらめになっていた。それって、うちの親から受け継がれてるんだよ。そういう教育方針だったから。まあ、親のせいになんかできないけど、そんな性格だから、君の気持ちに応えられなかった。ちゃんとやってればわかってくれると思い込んでいた」
「違う……それは違う……」
「1月から時間も作れる部署に変わって、そうしたら娘もすごく喜んでくれた」
彼は苦笑した。
「そういうことなんだって、わかった。だから、前のようなことはないと思う。やりなおしてもらえないかな」
「どうして……?」
聡史は怪訝そうに見つめ返した。
「どうして、そんなふうにいつもいうの!」
わたしはつい、大きな声を出してしまった。
「わたしを叱ってよ! 罵ってよ! わ、わた…わたし、一度も怒られてない!……あのときだって『離婚させてください。お願いします』だなんて――」
呼吸がうまくできなくなっていた。息継ぎがうまくできなくなって、次の言葉が出てこないほどだった。
「あ……わ、……わたしがあのとき、どれだけ怒ってほしかったか……。わたし、罰がほしかった。徹底的に痛めつけてほしかった。そ…れなのに、慰謝料もいらないとか…ありえないよ! 亜弥にだって会わせてもらって、だから、亜弥は今でもちゃんとわたしのこと、『ママ』って呼んでくれて……。それは感謝してる。だけど、聡史がいけない!……ああ、ああ、違う! ごめん。違う違う! いけないのは、わたしなの。わたしが全部悪いのに。だけど…だけど…わたし、ああ…わたし、なにいいたいんだろ……」
聡史は黙って待ってくれていた。ようやく、言葉を見いだした。
「叱ってもらえないと、わたし、聡史のお嫁さんに……ヒック……もう一回なんて、なれないよぉお!」
パシーン、と目が覚めるような一撃があった。
一瞬、何が起きたのかもわからず、わたしは部屋の片隅を見つめていた。視野に聡史はおらず、自分の首がねじ曲がるほど、違った方向を見ているのに気づいた。
「これでいいか」
振り向くと、聡史が手を引っ込めるところだった。もう一度、彼は言った。
「これでいい?」
「はい……」
わたしは呆然と、叩かれた左頬を触った。
「じゃ、復縁してくれる?」
「はい」
わたしは起きた現実を、まったく受け止め切れていなかった。
「あの……。これ……」
わたしは持ってきた聡史名義の通帳を差し出した。もし何かこの地震でトラブルなどあれば、使ってもらおうと思って持ってきていた。昨日入金し、ようやく7桁に届いたばかりだ。
「まだ、ぜんぜん少なくて、恥ずかしいんだけど。せめてもの償いだと思って、受け取ってください」
聡史は通帳を開き、少し驚いたようだった。
「わかった。ありがとう。受け取ります」
そういって微笑んだ。その顔を見て、わたしはボロボロ泣き出した。
「本当にいいの? 本当に復縁してもらえるの……」
「本当だよ」
「ありがとう……。ありがとうございます。今度こそ、一生かけてあなたを愛します。償いをさせてください」
聡史に抱きつきたかった。すがりついて、おんおん泣きたかった。でも、我慢した。そんなこと、まだできる資格はない。
彼はそれから、これからのことを話した。
もうすでにご両親には、復縁の可能性を伝えていて、わたしさえOKならと納得してくれている(道理で当たりが柔らかだった)。
この二年半、わたしが独りで頑張っていること、その中で聡史や亜弥のことだけ考えていること、口先だけでない反省をし、きっとこのままだと他の誰とも再婚せずに生きていこうとするだろうとか、そんなことを聡史は伝えていたらしい。
見ていてくれた……。うれしかった。
なによりも亜弥にとっても、やはり母親がいた方がいい、そのことは一番だと思ったと。
ご両親も、だんだんとわたしを不憫に思い、同情的な態度を示してくれていたそうだ。復縁してやったら、ということも、じつはお母様が最初に言い出したそうだ。
聞かされると、何か胸が締め付けられた。わたしなんかのことを、そんなふうに思ってくれていたなんて。
ありがたかった。ありがたすぎて、申し訳なかった。
ただ自分も迷いがある、と聡史はいった。
前回のことはどうしても癒えないトラウマのようになって残っていて、今でも苦しくなることがある。離れていると大丈夫だったが、一緒に暮らすようになったら、時には怒鳴ったりイライラしたりして、感情的になってしまいそうに思うと。
当たり前だと思う。それだけのことをわたしはしたのだ。
そういうことがあっても我慢できる?と問われ、もちろんだと答えた。
そういった感情的な不安感を軽減するために協力してほしいと言われた。
「なんでもする。させて!」
仕事や外に持って行くこともあるので、携帯電話はロックしても良いが、互いのロックナンバーを教え合う。許可なくそれを変更せず、いつ相手が見ても良いことにする。少なくとも自分は見てもらっても困ることは一つもないと聡史は言った。もちろん同意した。
PCなどで使うメールも同様。
仕事で遅くなるとき、何か別な用事で外出するときは、ちゃんと報告すること。もちろん、ちゃんとする。
「一度失われてしまった信頼関係は、なかなか取り戻せない」と聡史はいった。痛い言葉だったが、それは当然だった。
ゼロからではないと、わたしはこのとき感じた。わたしたちの場合、マイナスから回復しないといけないのだということが、このときの話でよくわかった。
わたしは自分からも提案した。
「もしこの後、また信頼を裏切るようなことがあれば、即離婚でいい。わたしの署名と捺印をした離婚届を用意しておきますから、それをあなたが持っていてください。でも、そんなことはもう絶対にしないと誓います。そんなことをしたら、わたし、自分で命を絶ちます」
聡史はそのとき、何かすごく辛そうな表情をした。
「命を絶つなんていうな」
そうして、わたしと聡史の再構築が始まった。
まずは少しずつならしていこうということで、最初は週末だけ実家にお泊まりするようにした(これは実質的に震災の当日からになった)。
ご両親は寛大にもわたしを温かく迎えてくれ、結婚したての頃と同じように接してくれた。
亜弥と過ごせる時間。
家族で囲む食卓。
わたしが取り戻したくて夢にまで見た光景だ。幾度も幾度も、その当たり前の団らんの中でうれしさのあまり泣きそうになった。
だが、やはり聡史との関係は、すぐにすべては回復しなかった。
以前のような、かつての友人関係から恋人になり結婚したときの、屈託のない関係ではなくなっていた。
彼はやはり、時折すごく苦しそうだった。それは月一で会っていたとき以上に見えた。そんな彼に、わたしもどう接したらいいのかわからない。明るく振る舞っていた方がいいのか、気持ちに寄り添うようにした方がいいのか、あやまったほうがいいのか。結局、どれもできず……。
ごめんなさいと、いつも心で詫びた。
けれど、聡史は最初に自分で不安だといったような、感情の乱れはほとんど見せなかった。怒ることもないし、ほとんど苛つくこともない。
あの何もなかった時代の態度とは違っていたが、すごく普通に振る舞ってくれた。気遣いもしてくれ、当たりも柔らかだった。笑顔も見せてくれる。冗談さえいう。そんなこと、普通できるだろうか……。
そう、この再構築の時期になって、わたしは初めて考えた。
もし、自分が逆の立場で、聡史が浮気をし、わたしが許す側になったのなら、こんなふうにできただろうか、と。
絶対無理、だった。
あまりにも身勝手だったな考えだけれど。
かりに聡史が「家庭を壊さない楽しみ」に過ぎなかったと言い訳したとして、わたしはそれを許せただろうか――? わたしには許す努力すら、できた自信がない。
わたしは聡史を信頼していた。絶対に裏切らない人だと思っていた。その思いの上にあぐらをかき、わたしは愚かにも自分勝手にふるまって彼を裏切ってとことん傷つけていた。あのような行いをされたなら、わたしはきっと聡史のようにはできなかった。
わたしが逆の立場なら、些細なことで当たり散らしたに違いない。あれが気に入らないこれが気に入らない、わたしが気持ちが荒れるのもあなたのせいだ、と。
それなのに、彼は――。
すごいと、心底感じた。
わたしは彼のことを、あらためて本当の意味で尊敬できた。自分で原因を作っておきながら、こんな言い方は失礼そのものかもしれないけれど、わたしは昔以上に、毅然と律し続ける彼を敬愛した。離婚以来、彼のことを恋い焦がれていたけれど、もっと恋した。前とは違う深い愛情を感じた。
たぶん大丈夫だと思うというので、ひと月もたたないうちに完全な同居に移行し、婚姻届を提出した。
伝えると、わたしの両親は手放しで喜び、すぐに聡史の実家に押しかけてきた。父も母も泣きながら彼に礼を言った。久しぶりに両家の家族での祝いをした。
婚姻届を出すタイミングで、わたしは訊いた。
「仕事、辞めたほうがいい?」
わたしが外に出ない方が、きっと聡史も安心するのではないかと考えたからだ。しかし、意外にも「いや、仕事は絶対に続けてほしい」と。
それどころか、「派遣でなく、正社員になって。そこは応援するから」とまで。
戸惑いながらも、わたしは「なら、頑張る」と応えた。
一番大きな問題は、夫婦生活だった。
完全な同居に移行した夜、わたしはあらためて彼の前で手をつき、復縁してもらったこと、受け入れてくれたことの、心からの感謝を伝えた。
彼は抱きしめてくれた。
体が震えるほどうれしかった。
けれど、できなかった。
ごめんといわれ、わたしのほうがごめんだよと泣いた。
わたしと聡史は、どちらもが奥手で、お互いが初めての相手だった。
だからこそよけいに、彼は別の誰かに汚されたわたしへの心理的抵抗が強かったのかもしれない。
それは幾度か続いた。
思い通りにならない機能に、聡史はすごく悩み、苦しんでいた。「くそっ」と、このときだけは苛立った。それは、わたしへではなく、自分に苛立っているようだった。
嫌悪感があるのなら、無理してくれなくてもいい。わたしはあなたと亜弥のそばにいられるだけで幸せです。それ以上の何も望まない。今のままで十分すぎるほど幸せです。
そういった。
そして、本当の思いを語った。
「こんなこというの、少し恥ずかしいんだけど……今ね、もう一度あなたに恋をしてる。学生時代よりもずっと強く恋してる。こんなこと、誰だってそんなにできない。それだけで、本当に幸せなの。わたし、このままずっと片思いでいいの。命を終えるまで、あなたに恋し続けるから」
苦しむ彼の背を抱いた。
彼はガバッと振り返り、わたしを抱きしめた。
もう一度、愛撫してくれた。
そして、その夜、ついに結ばれた。
おかしな話だけれど、痛かった。まるで初めての時みたいに、すごく痛かった。そういうこともあるのだと後で知ったが、出血もした。
痛みの中で、彼とつながったとき、わたしはその痛みと喜びの中でわんわん泣いた。泣きながら彼の体に思いっきりしがみついていた。
ようやく、元に戻った――いや、そうじゃない。
彼と新しい夫婦関係を築くことができた。
そうして――
ああ。
なんでだろう。
お願いです。誰か教えてください。
そうして、聡史はこの世を去った。
信じられない。
現実が受け入れられない。
8月、彼は一度入院した。彼の中学時代の友人が勤める大学病院で手術を受けた。
「大腸のポリープが大きくなっているので手術で切除します。なに、簡単なものですから、心配はいりませんよ」
その友人医師の説明に安心していたが、思いのほか手術は長かった。術後、聡史はなかなか食が戻らず、辛そうだった。
しかし、ひと月もすると以前とあまり変わらずに仕事をし、行動できるようになっていた。
彼と亜弥と、手をつないで歩く。
買い物に行く。
幼稚園の行事。
五人での日常の食事と団らん。
一つ一つの当たり前の日常に幸せを感じていた。
けれど、11月頃、再び聡史は体調を崩し、入院した。
そのときにわたしは、夫が癌であることを知らされた。8月の手術も本当は癌で、友人医師は夫から口止めされていたとのことだった。
「どうしていってくれなかったの」
病室でわたしは泣きながら訴えた。
「帰ってきてすぐ、癌になった夫の看病じゃ、かわいそうだから」
「ばか! 言ってよ。いくらだって看病するよ! させてよ」
「うん。これからはお願い」
抗がん剤や放射線などによる苦しい治療が始まった。
わたしは勤務時間を減らしてもらい、彼のサポートを続けた。
冬、一時的に体調は持ち直したかに思えた。しばらく家族で過ごせる時間も持つことができたが、年が明けて、病状が深刻になった。
入院。そのときに「もってひと月」という余命宣告を受けた。
わたしはショックでボロボロになりながら、亜弥を連れ、毎日のように見舞いに行った。余命宣告を越えて、春を迎えた。
夫は痩せ衰え、顔色も悪くなりながら、それでも妙に明るかった。
「桜餅、食べたいな」
そう言われて、わたしは昔聞いた聡史の実家のそばにあるというお店のを買っていった。
彼はすぐに気づいた。懐かしいな~と弱々しくいいながら、わたしが差し出すそれをたったひと口食べた。
それが彼の人生最期の食事だった。
その後、容態は急変。
「ありがとう。君と一緒になれてよかった」
最期の言葉だった。
あの人はこの世を去った。
どうしてでしょうか。
なぜ、わたしの愛したあの人は、こんなに早く死なねばならなかったのでしょうか。
わたしがかわりに死にたかった。あの幸福の時のまま、わたしが死ねば良かった。そうしたら、わたしは満足なのに。
彼の後を追いたかった。でも、できない。亜弥がいる。
それにお腹の子がいる。
お願いです。
誰か――
誰か教えてください。
わたしのせいなのでしょうか――
一年が過ぎ、わたしは社会復帰した。
生まれた子は男の子だった。聡(さとる)と名付けた。
妊娠と出産と育児の期間、頑張って資格を取った。夫の死後、本当に死に物狂いで努力し、医療事務の資格を取った。そのおかげと、夫の友人であった医師の紹介もあり、派遣ではなく正社員として働ける職場を得た。
亜弥と聡は、夫のご両親が変わらずサポートしてくれ、すごく助かっている。帰る場所も変わらず、夫の実家だ。
ご両親は子供たちをすごくかわいがってくれる。
わたしは33歳になっていた。亜弥はこの春、小学校に上がる。
前年の7月に生まれた下の子、聡は成長が早く、先日、自分の足で立って、少しだけ歩いた。
子供たちの成長だけが、わたしの生きがいだった。
ある日、勤め先の病院の食堂でお弁当を食べていると、近くの看護士たちのひそひそ話が耳に入った。どうやら院内のある医師と看護士の不倫についての噂のようだった。
病院はわりとそんな話が多いと感じる。けれど、不倫はこりごりだ。
まして、今のわたしは聡史のことが忘れられない。もうずっと恋している。
もう生涯、あの人でいい。あの人がいい。
生きている間に会えなくても。
わたしは同じ人に二度、恋をした。
決して褒められない、人には罵倒されるような経験のあげくだったけれど。
でも、二度目のすごく強い恋のさなかに、その人を亡くしてしまった。
子供がいなかったら、そして仕事を応援するというあの人の言葉がなければ、わたしはあのときにもうだめになっていただろう。
子供たちのために働く。そして聡史のかわりに、子らを一人前にして独り立ちさせる。
そのときまで、あの世でも、天国でも、なんでもいい。
待っていてほしいと思う。
もしかしたら彼は迷惑かもしれない。
けれど、許してほしい。わたしは彼の元へ行って、またあのときのようになりたい。そればかり切望してしまう。
聡史のことが好きすぎて、今でも心底愛していて、他のことはもうどうでもいい。
自分の償いは自分の役目を果たすこと。
それだけが今の目の前にあること。
いい加減にはしない。絶対に。
亜弥も、聡も、めいっぱい愛する。育てる。わたしみたいな馬鹿な過ちを犯さない子に育てる。
子らが大きくなったときには、わたしの過ちも含め、すべてを伝えようと思う。あなたたちのお父さんが、どれだけ素晴らしい人であったか。子供たちやわたしを愛してくれていたか。
そうして……
それを終えたら、もういいよね?
一周忌の法要が執り行われた。
お寺での法要には、親戚だけではなく、聡史の主治医であった友人医師の姿もあった。なんでも、親御さんに聡史が頼んでいたらしい。一周忌には必ず彼を呼んでほしいと。
わたしは聞かされていなかったけれど、病床の彼からそんなことをいわれたら、ヒステリックに拒絶したかもしれない。わたしは最後の最後まで奇跡を信じたかった。けれど、彼はとっくに覚悟ができていたようだ。
法要の後、近しい親戚と友人医師を交えての会食があった。まだ一年――湿っぽい会食だった。
その最中、友人医師が「ちょっといいですか」とわたしに耳打ちした。
わたしは席を離れ、友人医師と会食会場の外へ出た。
彼は懐から封筒を取り出し、差し出してきた。
「預かっていたものです。子供も生まれ、少し気持ちが落ち着いているようだったら渡してほしいと」
「え?」
「聡史からです」
手に取ると、わたしの名前が聡史の字で表書きされていた。封はされたままだ。
「お詫びしなければならないことがあります」
友人医師は頭を下げ、告白した。
じつは、聡史の癌の発覚は、本当は2011年の1月だったと。その段階ですでに手遅れで、手術をしたところで延命にしかならないとわかっていた。
医師としては手術を勧めた。万に一つの可能性もあるといったが、やはり気休めだった。それは聡史もわかっていたようだった。
この段階で余命半年、という診断だった。
そこで聡史は、「このことは誰にも黙っていてほしい。親にも。手術は受けるが、ポリープか何かということにしてほしい」といった。
聡史は会社に自分の本当の病状を伝え、部署の転属を願い出た。会社は過去の彼の功績を高く評価していて、これまで無理をさせてきた事実もあった。すぐに1月から時間の取れる部署に移ることができた。そして、この事実は会社にも秘密にしてもらったという。
ポリープという名目で手術を受け、そして聡史は、自分の病状については黙したまま、そこから復縁のために動き出したのだと。
「なんで、そんなことを……。なぜ主人はわたしやご両親にまで秘密にしていたんでしょうか」
わたしは手紙を手に握りしめたまま、医師に問いかけた。
「わかりません。あなたに負担をかけたくなかったのか、真意は自分も聞いていません。ただ、驚くべきことがあります。これは聡史から、絶対にあなたに伝えてほしいといわれていたことです」
「なんでしょう」
それは…と彼が語ったのは、復縁後、5月下旬の検診で、聡史の病状は奇跡的なほど持ち直したということだった。
もしご要望があればカルテもレントゲンもお見せする。彼の癌はもういくつかの部位に転移していたのだが、一時的にそれが小さくなったのだと。
その前月、わたしと聡史はもう一度ちゃんと結ばれることができていた。
「もしかしたら、と思いました。このまま奇跡が起き、彼が回復するのではないかと、本当に思った」
が、8月に再手術になってしまったのは、その癌細胞が再び大きくなってくるのが確認されたからだと。
「聡史は言っていました。このまま癌で亡くなったら、かならずあなたは自分のせいで夫が亡くなったのではないかと思うと。たとえば復縁のストレスとか、そういうもので追い詰めたのではないかと」
その通りだった。
わたしのせいではないかと、ずっと思っていた。
「ですが、そうではないんです。あなたとやり直せたことで、聡史の病状は回復していたんです。医学的にはほとんど奇跡的に。だから、あなたにこの手紙を渡すときに、その事実を伝えてほしいといわれていたんです。もっと早くにお伝えした方が良かったのかもしれませんが、お子さんの出産などもあり、タイミングを躊躇している内に今になってしまいました。申し訳ない。一周忌には招くように親御さんに伝えてあるので、遅くともそこでこの手紙を渡してほしいと依頼されていたんです」
涙ながらに伝えてくれた。
わたしは呆然と手紙を手にたたずんでいた。
帰宅後、子供たちも寝静まってから、わたしは手紙を開封した。
こわかった。手が震えた。
なにがこわかったのか、よくわからない。今さらのように聡史から恨み辛みをしたためられているのではないかとか、そんな妄想も頭をよぎった。
もちろんそんなことをする人ではないと信じていたが、わたしが過去に行った罪の根深さが、そんなことさえ思わせた。
愛する――
そう、そういう書き出しとわたしの名への呼びかけで始まっていた。
これを君が読むとき、自分はもうこの世にいないはずです。
最初に言いたい。
ありがとう。もう十分に償ってもらいました。
本当はそんなことを言うために書いているのではないです。僕の気持ちを伝えるために書いていますが、たぶん君が償いきれないうちに僕が死んでしまい、もしかすると僕の病気のことも自分のせいではないかと思っていると、推測しています。
当たった? その通りじゃない?
ハハ。
実は僕は超能力者なんだ。
ていうのは嘘だけどね。
その程度のことは、わかるよ。
君のことは、よくわかってる。長い付き合いだから。
それに、君が今の僕をすごく愛してくれて、僕や亜弥、それにお腹の子のことを、ほかのどんなことよりも考えて、自分を滅して、尽くしてくれていることがわかってる。両親への振る舞いをみていても、それはわかる。
だから、まず言いたい。
もう十分に償ってもらったよ。
君の償いは、「僕がちゃんと再び君を愛せるようになったこと」です。
言っている意味、わかるかな?
僕は今、ちゃんと君を愛せている。
以前のように。
いや、違うな。以前よりも、ずっと。
交際が始まった20歳の頃より、結婚した頃より、今の君が愛おしく、大切に思う。
そうなれたのは、すごく幸せなことで、そうなれたのは君がもう一度、信じさせてくれたから。
むろん100%の信頼なんて、普通にどんな夫婦だってなかなかできないけれど、以前、何も考えずに無条件で信じ込んでいたのと違う意味で、僕は君を信じられる。
なんていうのかな。
そう、君がもう一度僕に信じようと思う勇気を与えてくれた。
少し順を追って説明します。
僕の癌は2011年の初めにはわかっていました。その段階で、余命は半年とあいつに告げられました。あの馬鹿医者です。ま、悪く言っちゃいけないんだけど(笑)。
あいつはできのいいやつで、医者としても優秀らしい。
そのとき僕が考えたのは、半年という限られた時間の中で、自分の残された命をどう使うか、何ができるのかということでした。余命を宣告され、ショックだったけど、限られた残りの時間だからこそ、真剣に考えた。
人は皆、本質的には限りある命なんだけど、本当に先のタイムスケジュールが見える形で突きつけられてしまった。
正直に言います。
最初に考えたのは、亜弥のことでした。
亜弥は一度、母親を失う経験をさせてしまっています。ごめん。君には痛い言葉だと思うけれど、どうか読み進めてほしい。そうさせたのも自分です。
母親と離別、今度は父親の僕がこの世を去ってしまう。確実に。
親を失うという体験は、人生のどこかで起きることだけれど、まだ幼い亜弥にとってはあまりにも酷だと思った。さいわい、亜弥は君のことが好きだ。今まで黙っていて申し訳なかったけれど、亜弥がパパとママと一緒にいたいと願っていたというのは感じていた。
それができなかったのは、自分のせいです。
あのときの心の傷が、どうしても癒えなかった。あ、これは、君を責めるために書いているのではなく、今はもう癒えたと感じているから、そうはっきり告げています。
でも、とにかく亜弥のために、母親だけはそばに戻してやりたかった。
余命を告げられなければ、君との復縁はまだまだずっとできなかったかもしれない。
亜弥の次に考えたのが君のことです。
もしこのまま自分がこの世を去ったら、君はどう思うだろうと考えた。君はずっと僕たちに償いをし続けなければと考えていたよね。それは見ていてわかる。でも、僕が死ねば、君は償いをする対象を失い、またこのような形で僕が亡くなってしまったことにすら、きっとすごい責任を感じて、もっともっと深い後悔の中で人生を生きなければならなくなる。
そんなふうになってほしくなかった。
それに、僕自身、あのときのままの状態でこの世を去りたくなかった。
それは、悔しいと思った。それでは、何か負けるような気がした。
誰にというわけでもないんだけど。たぶん、自分自身にだと思う。
だから、僕と君の関係を何らかの形で取り戻したかったんだ。
それに、この残り少ない命を、より価値あるものにしたかった? なんかそんな思いもあった。
あ、君との復縁は、癌になった自分のお世話をしてもらうためじゃないよ(笑)。そんなこと思ってないと思うけど、念のため。
復縁を実行すると、君はもう一度、僕を失うことになって、すごく辛い経験になってしまうとわかっていた。
そのことも考えた。
でも、ここはわがままを通すことにした。ごめん。
僕は君という存在を自分の人生に取り戻したかったし、それに矛盾しているかもしれないけれど、残された命で君を解放したかった。
君が僕たちに償いをし続ける人生ではなく、君と僕がもう一度愛し合える人生にして終わりたかった。
それが僕が最後にできることだと思った。
末期癌であることを隠していたのは、それを告げての復縁だったら、君は僕に対して償いという姿勢でしか関われないと思ったから。
そんなんじゃない。もう一度、当たり前の夫婦になりたかった。
生きている間にそれができるかどうか、癌と発覚するまでにできるかどうか、時間との闘いだった。
でも、限られた命だからこそできると思った。
それはできた、と感じている。
僕は満足だ。
悔いはない。
あ、いや。違うな。
もう少し自分の健康を管理しておけば、こんなことにはならなかった。
仕事仕事で、少々の不調など無視し続けて、この結果だ。
かわいい亜弥の顔をもっと見ていたかった。
かわがってやりたかった。
生まれてくる子にも会いたかった。
子供たちの成長を見守りたかった。
成人式。結婚式。孫の誕生。
どれもこれも本当に見たいよ。
でも、もう見られない。
子供が手を離れてから過ごす君との暮らし。
もう、その全部を見ることができないし、体験することもできないけれど、天国からは必ず見守る。
君も幸せになってほしい。
もう僕からは解放されて。
僕は君を取り戻し、半年と言われた余命が、少し伸びたみたいだ。
復縁して一年。
人生最高の一年だったよ。
僕も君にもう一度恋をした。大好きだよ。
君にはこれからの人生、きっと長い時間がある。
その時間を大切に使ってほしい。
子供たちのこと、よろしく頼む。
そして、君自身が僕から解放されて、幸せになることを願う。
本当に願う。
だから、そんなチャンスがあったら、迷わずそれをつかみ取ってほしい。
遠慮なんかするな。
それが僕の望みだ。
まだまだ告げたいことはたくさんあるような気がするけれど、最後にかけたい言葉はやはりこれだけだ。
愛している。ありがとう。
読みながら、手紙を握る手がぶるぶる震え続けた。
泣いた。
子供たちを起こさないように、声を押し殺していたけれど、読み進めるうちに我慢できなかった。彼の名を呼びながら、号泣した。
月日は流れる。
子供たちは成長していく。
それでも――
わたしはずっと聡史のことを思い続けている。それは何も変わらない。
春が訪れるたび、桜が咲くたび。
わたしはそこかしこに彼の思い出をあたためる。
幾度も思い出し、泣いたりもする。少しずつ微笑めることもある。
春の彼の命日には、いつもお参りをする。
今年、早咲きの満開の桜の下、花びらがいっぱい墓に散っていた。
掃除をし、草取りをし。
花を供え。
わたしは語りかける。
「あなた、亜弥は今度もう6年生だよ。いいお姉ちゃん。聡は小学校に上がるよ。やんちゃよ。誰に似たんだろうね」
「お義母さん、こないだぎっくり腰になってね、大変だったのよ」
「お義父さん、あれでけっこう優しいね。今、家で看病してるの」
「それからね、こないだ家に野良猫が来てね、亜弥がね……」
些細なことから大きなことまで報告しながら。
「桜餅、買ってきたよ。あなたの好きなお店の」
供える。
「ママ!」
亜弥が呼び走ってくる。その後ろから、頑張って聡がついてくる。わたしは立ち上がり、少し腰をかがめて二人の子らを迎える。
ざっ、と風が吹いた。
桜の花びらが、たくさん舞った。なんだか、喜んでいるみたいに。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
☆ この物語はフィクションです。ブログ小説についてをご覧ください。
あの日がやってきた。
3.11――
派遣で勤務していた会社のオフィスもパニックになった。余震の続く中、背筋が凍るような情報が次第に入ってきて、帰宅命令が出された。個別の会社の事情などよりも、この国が根底的に覆るような大きな危機感が直感的にあった。
地震発生直後から、わたしは幾度も聡史の携帯電話にかけていたが、まったくつながらなかった。メールを送っていたが、それも届いているのかどうかもわからなかった。
聡史と娘のことが心配でならなかった。
交通網が麻痺した中、誰もがそうであったようにわたしはアパートへ歩いて帰った。踵のあたりがすりむけ、痛みに耐えながら歩き続けた。
聡史の実家は、アパートからさらにその先にある。だから一度アパートに帰ってから、そのまま向かうつもりだった。
時折襲ってくる余震が怖かった。それ以上に聡史と娘のことが案じられてならなかった。歩きながら幾度もメールをしていた。
今、アパートに戻っている途中です。心配です。ごめんなさい。後からそちらへ伺ってもいいですか。
しかし、アパートに戻れたのは深夜だった。
いつも出かけるときに玄関に置く写真立てが下に落ちていた。ガラスが割れていた。胸騒ぎがする。
そのとき、携帯電話が鳴った。メールの返事がようやく来た!
無事です。亜弥も大丈夫。来てください。
ほっとした。それにうれしかった。「来てください」という表現に――。
わたしは動きやすい服に着替え、ぼろぼろの古いスニーカーに履き替えた。そして、再び歩き出した。
離婚後、わたしは自分の実家を出た。あれだけのことをしでかして、両親に甘えて過ごすなど、とてもできなかったし、聡史の実家の比較的近くで生活をしたかった。あまり近くではきっと嫌がられる。そう思い、駅二つ離れたところにアパートを借りたのだ。
深夜の道は、あり得ないほど人であふれていた。
徒歩で帰宅する人々に混じって、聡史の実家にたどり着いたのは、午前3時頃だった。が、家を前にしてわたしは体がこわばってしまった。
子供との面会の時は、たいていどこか外で待ち合わせる。自分の不貞発覚以来、この実家を訪ねるのは初めてだった。
どの面を下げて会えるというのだろう。離婚が決定的になって、両家の話し合いが行われ、そのときにご両親に会ったきりだ。聡史のお母様の鋭い侮蔑に満ちた言葉や眼差しが、今でも心に焼き付いている。
胸がドキドキした。
無事が確認できたのだから、ここまで来る必要はなかったのではないか。訪ねていったら、不愉快に思われるのではないか。いや、そうに決まっている。来るべきではなかったのではないか。
迷っていると、ふいに玄関の扉が開いた。
聡史だった。彼はわたしを見つけると、ほっとした表情を浮かべた。
「ああ、着いたんだね。中へ入って」
心配で何度か外の様子をうかがっていた、ということだった。
「い、いいかな」
「もちろんだよ。さあ」
非常時でなければ、敷居をまたぐことはなかっただろう。
リビングにご両親がいた。慄然とせざるを得ない光景を幾度も映し続けるテレビの画面を見入っていたが、わたしが入っていくと気づいた。
ああ、とお母様はわたしの名を呼び、立ち上がった。
「来れたの! よかった。大丈夫だった?」
手を差し伸べられ、腰から砕けそうなほど安堵した。
「はい。ありがとうございます。あの、こんなときなんですが、来てしまってごめんなさい」
「歩いてきたのかね。いやまあ、そうだろうな。疲れたろう」
と、お父様も気遣ってくださった。
「亜弥は……?」
「今は寝てる。ただ余震を怖がって、何度も起きてきた。僕らも眠れなくてね」
「様子を見に行って、いい?」
「ああ、こっちだ」
案内された部屋で亜弥は眠っていた。寝顔なんて見るの、いつ以来だろう。閉じたまぶたや鼻筋にかけて、ますます聡史に似てきた。
つい、そっと髪に触れた。
ずしっという響きとともに、また余震がやってきた。かなり大きい。
ぱちっと亜弥が目を開けた。おびえた表情の後、すぐにわたしに気づいた。
「ママ?」
「うん、ママだよ」
ママだ、ママだ、といって亜弥は両手を伸ばしてきた。わたしは思わず娘を抱きしめた。涙があふれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
娘にささやいた。
「ママ、ここにいて」
「うん。いるよ」
しばらくそばにいた。娘は寝息を立て始めた。
ずっと聡史は、同じ部屋の中で見守ってくれていた。
眠りに落ちたことを確認して、わたしは立ち上がり、聡史に頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたや亜弥の顔を見て、安心しました。帰りますね」
「今日はもう泊まっていったら」
「え?」
「まあ、泊まるっていっても、もう未明だけど。今日は土曜日だし、電車とか交通機関がもうちょっと正常になるまでいたら?」
「でも、ご両親に申し訳なくて……」
「心配ないよ。――ああ、少し話、できないかな」
わたしは戸惑いながら、「はい」と答えた。
聡史の書斎に案内された。そのとき、足を引きずっているのを見られてしまった。
「どうしたの?」
「あ、歩きすぎて、ちょっと……」
「血が出てない? ああ、そこで待っていて」
大学の交際時代に幾度か訪れたことがあった。聡史の書斎には、すごくたくさんの蔵書がある。わたしには理解できなさそうな科学や宇宙の本がたくさんあるし、小説も書棚をびっしりと埋めている。
落ち着く感じがした。
聡史はすぐに消毒液と大ぶりなガーゼ付き絆創膏を持ってきてくれた。
「出して」
「あの、自分でします。ありがとう」
そんなことまで、とてもしてもらえなかった。
消毒液を返して、あらためて礼を言った。
そういう人だった――と改めて思った。当たり前にわたしの些細な変化や表情に気づいて、「だいじょうぶ?」とか「どうしたの?」とか言ってくれる人だった。
わたしが浮気に走った頃も、それがなくなったわけではなかった。ただ、恋人時代や新婚時代のようにわたしが新鮮に感じなくなっていただけ、彼の仕事のために頻度が少なくなっていたというだけ。
「あの、話って……」と、切り出した。
聡史は悩ましい表情をしていた。いい出しにくいことを抱えているように見え、不安になった。もう面会させてもらえないとか、そんな話か――
あるいは、聡史が誰かと再婚するとか。
それは大いにあり得ることで、いつも不安に思っている。そうなったときには、わたしももうこんなふうには関われないのではないかとも。
「こんなタイミングでなんなんだけど、復縁してもらえないかな」
え――?
わたしは耳を疑った。
「もし君がいやでなければ――それと、たとえば君に誰かお付き合いしている人とかいなければ」
あまりにも唐突すぎて、頭で言葉が理解できなかった。嘘ではない。本当に狼狽してしまってわからなかったのだ。
「え? え? ごめんなさい。もう一度言って――」
「だから、よかったら、もう一度結婚してほしい」
「…………」
「だめかな」
ようやく意味が体に入ってきた。その言葉は、この二年半、わたしが心底望んでいたものだった。誰もが思うだろう。そんな言葉をかけてもらって、その瞬間にわたしが小躍りしなかったのはおかしいと。
でも、なぜかそうはならなかった。
「ど、どうして……?」
「ちょっと前から考えていて、じつは明後日、話そうと思っていたんだ。ほら、1月にポリープの手術したっていったよね。そのときに、いろいろ思ったんだ。ああ、それに……こんなことが起きて、今の亜弥の様子を見て、よけいにね」
涙が勝手に、どんどん頬を伝って落ちるのがわかった。だけど、わたしは馬鹿みたいにずっと聡史の顔を、目を、見つめていた。やがてそれは潤んで見えなくなってしまい、手でこすって、それでもなお、わたしは見つめ続けていた。これは夢? 本当のことなの?
「あの頃、僕もいけなかった。僕は頭でいろいろ考えて、先々のことまで計画するのが好きなのは知ってるだろ」
うん、と機械的にうなずいた。涙がバラバラとこぼれた。
「何歳までにどうなって、いつ頃には家を建ててとか。そんな自分の考えにがんじがらめになっていた。それって、うちの親から受け継がれてるんだよ。そういう教育方針だったから。まあ、親のせいになんかできないけど、そんな性格だから、君の気持ちに応えられなかった。ちゃんとやってればわかってくれると思い込んでいた」
「違う……それは違う……」
「1月から時間も作れる部署に変わって、そうしたら娘もすごく喜んでくれた」
彼は苦笑した。
「そういうことなんだって、わかった。だから、前のようなことはないと思う。やりなおしてもらえないかな」
「どうして……?」
聡史は怪訝そうに見つめ返した。
「どうして、そんなふうにいつもいうの!」
わたしはつい、大きな声を出してしまった。
「わたしを叱ってよ! 罵ってよ! わ、わた…わたし、一度も怒られてない!……あのときだって『離婚させてください。お願いします』だなんて――」
呼吸がうまくできなくなっていた。息継ぎがうまくできなくなって、次の言葉が出てこないほどだった。
「あ……わ、……わたしがあのとき、どれだけ怒ってほしかったか……。わたし、罰がほしかった。徹底的に痛めつけてほしかった。そ…れなのに、慰謝料もいらないとか…ありえないよ! 亜弥にだって会わせてもらって、だから、亜弥は今でもちゃんとわたしのこと、『ママ』って呼んでくれて……。それは感謝してる。だけど、聡史がいけない!……ああ、ああ、違う! ごめん。違う違う! いけないのは、わたしなの。わたしが全部悪いのに。だけど…だけど…わたし、ああ…わたし、なにいいたいんだろ……」
聡史は黙って待ってくれていた。ようやく、言葉を見いだした。
「叱ってもらえないと、わたし、聡史のお嫁さんに……ヒック……もう一回なんて、なれないよぉお!」
パシーン、と目が覚めるような一撃があった。
一瞬、何が起きたのかもわからず、わたしは部屋の片隅を見つめていた。視野に聡史はおらず、自分の首がねじ曲がるほど、違った方向を見ているのに気づいた。
「これでいいか」
振り向くと、聡史が手を引っ込めるところだった。もう一度、彼は言った。
「これでいい?」
「はい……」
わたしは呆然と、叩かれた左頬を触った。
「じゃ、復縁してくれる?」
「はい」
わたしは起きた現実を、まったく受け止め切れていなかった。
「あの……。これ……」
わたしは持ってきた聡史名義の通帳を差し出した。もし何かこの地震でトラブルなどあれば、使ってもらおうと思って持ってきていた。昨日入金し、ようやく7桁に届いたばかりだ。
「まだ、ぜんぜん少なくて、恥ずかしいんだけど。せめてもの償いだと思って、受け取ってください」
聡史は通帳を開き、少し驚いたようだった。
「わかった。ありがとう。受け取ります」
そういって微笑んだ。その顔を見て、わたしはボロボロ泣き出した。
「本当にいいの? 本当に復縁してもらえるの……」
「本当だよ」
「ありがとう……。ありがとうございます。今度こそ、一生かけてあなたを愛します。償いをさせてください」
聡史に抱きつきたかった。すがりついて、おんおん泣きたかった。でも、我慢した。そんなこと、まだできる資格はない。
彼はそれから、これからのことを話した。
もうすでにご両親には、復縁の可能性を伝えていて、わたしさえOKならと納得してくれている(道理で当たりが柔らかだった)。
この二年半、わたしが独りで頑張っていること、その中で聡史や亜弥のことだけ考えていること、口先だけでない反省をし、きっとこのままだと他の誰とも再婚せずに生きていこうとするだろうとか、そんなことを聡史は伝えていたらしい。
見ていてくれた……。うれしかった。
なによりも亜弥にとっても、やはり母親がいた方がいい、そのことは一番だと思ったと。
ご両親も、だんだんとわたしを不憫に思い、同情的な態度を示してくれていたそうだ。復縁してやったら、ということも、じつはお母様が最初に言い出したそうだ。
聞かされると、何か胸が締め付けられた。わたしなんかのことを、そんなふうに思ってくれていたなんて。
ありがたかった。ありがたすぎて、申し訳なかった。
ただ自分も迷いがある、と聡史はいった。
前回のことはどうしても癒えないトラウマのようになって残っていて、今でも苦しくなることがある。離れていると大丈夫だったが、一緒に暮らすようになったら、時には怒鳴ったりイライラしたりして、感情的になってしまいそうに思うと。
当たり前だと思う。それだけのことをわたしはしたのだ。
そういうことがあっても我慢できる?と問われ、もちろんだと答えた。
そういった感情的な不安感を軽減するために協力してほしいと言われた。
「なんでもする。させて!」
仕事や外に持って行くこともあるので、携帯電話はロックしても良いが、互いのロックナンバーを教え合う。許可なくそれを変更せず、いつ相手が見ても良いことにする。少なくとも自分は見てもらっても困ることは一つもないと聡史は言った。もちろん同意した。
PCなどで使うメールも同様。
仕事で遅くなるとき、何か別な用事で外出するときは、ちゃんと報告すること。もちろん、ちゃんとする。
「一度失われてしまった信頼関係は、なかなか取り戻せない」と聡史はいった。痛い言葉だったが、それは当然だった。
ゼロからではないと、わたしはこのとき感じた。わたしたちの場合、マイナスから回復しないといけないのだということが、このときの話でよくわかった。
わたしは自分からも提案した。
「もしこの後、また信頼を裏切るようなことがあれば、即離婚でいい。わたしの署名と捺印をした離婚届を用意しておきますから、それをあなたが持っていてください。でも、そんなことはもう絶対にしないと誓います。そんなことをしたら、わたし、自分で命を絶ちます」
聡史はそのとき、何かすごく辛そうな表情をした。
「命を絶つなんていうな」
そうして、わたしと聡史の再構築が始まった。
まずは少しずつならしていこうということで、最初は週末だけ実家にお泊まりするようにした(これは実質的に震災の当日からになった)。
ご両親は寛大にもわたしを温かく迎えてくれ、結婚したての頃と同じように接してくれた。
亜弥と過ごせる時間。
家族で囲む食卓。
わたしが取り戻したくて夢にまで見た光景だ。幾度も幾度も、その当たり前の団らんの中でうれしさのあまり泣きそうになった。
だが、やはり聡史との関係は、すぐにすべては回復しなかった。
以前のような、かつての友人関係から恋人になり結婚したときの、屈託のない関係ではなくなっていた。
彼はやはり、時折すごく苦しそうだった。それは月一で会っていたとき以上に見えた。そんな彼に、わたしもどう接したらいいのかわからない。明るく振る舞っていた方がいいのか、気持ちに寄り添うようにした方がいいのか、あやまったほうがいいのか。結局、どれもできず……。
ごめんなさいと、いつも心で詫びた。
けれど、聡史は最初に自分で不安だといったような、感情の乱れはほとんど見せなかった。怒ることもないし、ほとんど苛つくこともない。
あの何もなかった時代の態度とは違っていたが、すごく普通に振る舞ってくれた。気遣いもしてくれ、当たりも柔らかだった。笑顔も見せてくれる。冗談さえいう。そんなこと、普通できるだろうか……。
そう、この再構築の時期になって、わたしは初めて考えた。
もし、自分が逆の立場で、聡史が浮気をし、わたしが許す側になったのなら、こんなふうにできただろうか、と。
絶対無理、だった。
あまりにも身勝手だったな考えだけれど。
かりに聡史が「家庭を壊さない楽しみ」に過ぎなかったと言い訳したとして、わたしはそれを許せただろうか――? わたしには許す努力すら、できた自信がない。
わたしは聡史を信頼していた。絶対に裏切らない人だと思っていた。その思いの上にあぐらをかき、わたしは愚かにも自分勝手にふるまって彼を裏切ってとことん傷つけていた。あのような行いをされたなら、わたしはきっと聡史のようにはできなかった。
わたしが逆の立場なら、些細なことで当たり散らしたに違いない。あれが気に入らないこれが気に入らない、わたしが気持ちが荒れるのもあなたのせいだ、と。
それなのに、彼は――。
すごいと、心底感じた。
わたしは彼のことを、あらためて本当の意味で尊敬できた。自分で原因を作っておきながら、こんな言い方は失礼そのものかもしれないけれど、わたしは昔以上に、毅然と律し続ける彼を敬愛した。離婚以来、彼のことを恋い焦がれていたけれど、もっと恋した。前とは違う深い愛情を感じた。
たぶん大丈夫だと思うというので、ひと月もたたないうちに完全な同居に移行し、婚姻届を提出した。
伝えると、わたしの両親は手放しで喜び、すぐに聡史の実家に押しかけてきた。父も母も泣きながら彼に礼を言った。久しぶりに両家の家族での祝いをした。
婚姻届を出すタイミングで、わたしは訊いた。
「仕事、辞めたほうがいい?」
わたしが外に出ない方が、きっと聡史も安心するのではないかと考えたからだ。しかし、意外にも「いや、仕事は絶対に続けてほしい」と。
それどころか、「派遣でなく、正社員になって。そこは応援するから」とまで。
戸惑いながらも、わたしは「なら、頑張る」と応えた。
一番大きな問題は、夫婦生活だった。
完全な同居に移行した夜、わたしはあらためて彼の前で手をつき、復縁してもらったこと、受け入れてくれたことの、心からの感謝を伝えた。
彼は抱きしめてくれた。
体が震えるほどうれしかった。
けれど、できなかった。
ごめんといわれ、わたしのほうがごめんだよと泣いた。
わたしと聡史は、どちらもが奥手で、お互いが初めての相手だった。
だからこそよけいに、彼は別の誰かに汚されたわたしへの心理的抵抗が強かったのかもしれない。
それは幾度か続いた。
思い通りにならない機能に、聡史はすごく悩み、苦しんでいた。「くそっ」と、このときだけは苛立った。それは、わたしへではなく、自分に苛立っているようだった。
嫌悪感があるのなら、無理してくれなくてもいい。わたしはあなたと亜弥のそばにいられるだけで幸せです。それ以上の何も望まない。今のままで十分すぎるほど幸せです。
そういった。
そして、本当の思いを語った。
「こんなこというの、少し恥ずかしいんだけど……今ね、もう一度あなたに恋をしてる。学生時代よりもずっと強く恋してる。こんなこと、誰だってそんなにできない。それだけで、本当に幸せなの。わたし、このままずっと片思いでいいの。命を終えるまで、あなたに恋し続けるから」
苦しむ彼の背を抱いた。
彼はガバッと振り返り、わたしを抱きしめた。
もう一度、愛撫してくれた。
そして、その夜、ついに結ばれた。
おかしな話だけれど、痛かった。まるで初めての時みたいに、すごく痛かった。そういうこともあるのだと後で知ったが、出血もした。
痛みの中で、彼とつながったとき、わたしはその痛みと喜びの中でわんわん泣いた。泣きながら彼の体に思いっきりしがみついていた。
ようやく、元に戻った――いや、そうじゃない。
彼と新しい夫婦関係を築くことができた。
そうして――
ああ。
なんでだろう。
お願いです。誰か教えてください。
そうして、聡史はこの世を去った。
信じられない。
現実が受け入れられない。
8月、彼は一度入院した。彼の中学時代の友人が勤める大学病院で手術を受けた。
「大腸のポリープが大きくなっているので手術で切除します。なに、簡単なものですから、心配はいりませんよ」
その友人医師の説明に安心していたが、思いのほか手術は長かった。術後、聡史はなかなか食が戻らず、辛そうだった。
しかし、ひと月もすると以前とあまり変わらずに仕事をし、行動できるようになっていた。
彼と亜弥と、手をつないで歩く。
買い物に行く。
幼稚園の行事。
五人での日常の食事と団らん。
一つ一つの当たり前の日常に幸せを感じていた。
けれど、11月頃、再び聡史は体調を崩し、入院した。
そのときにわたしは、夫が癌であることを知らされた。8月の手術も本当は癌で、友人医師は夫から口止めされていたとのことだった。
「どうしていってくれなかったの」
病室でわたしは泣きながら訴えた。
「帰ってきてすぐ、癌になった夫の看病じゃ、かわいそうだから」
「ばか! 言ってよ。いくらだって看病するよ! させてよ」
「うん。これからはお願い」
抗がん剤や放射線などによる苦しい治療が始まった。
わたしは勤務時間を減らしてもらい、彼のサポートを続けた。
冬、一時的に体調は持ち直したかに思えた。しばらく家族で過ごせる時間も持つことができたが、年が明けて、病状が深刻になった。
入院。そのときに「もってひと月」という余命宣告を受けた。
わたしはショックでボロボロになりながら、亜弥を連れ、毎日のように見舞いに行った。余命宣告を越えて、春を迎えた。
夫は痩せ衰え、顔色も悪くなりながら、それでも妙に明るかった。
「桜餅、食べたいな」
そう言われて、わたしは昔聞いた聡史の実家のそばにあるというお店のを買っていった。
彼はすぐに気づいた。懐かしいな~と弱々しくいいながら、わたしが差し出すそれをたったひと口食べた。
それが彼の人生最期の食事だった。
その後、容態は急変。
「ありがとう。君と一緒になれてよかった」
最期の言葉だった。
あの人はこの世を去った。
どうしてでしょうか。
なぜ、わたしの愛したあの人は、こんなに早く死なねばならなかったのでしょうか。
わたしがかわりに死にたかった。あの幸福の時のまま、わたしが死ねば良かった。そうしたら、わたしは満足なのに。
彼の後を追いたかった。でも、できない。亜弥がいる。
それにお腹の子がいる。
お願いです。
誰か――
誰か教えてください。
わたしのせいなのでしょうか――
一年が過ぎ、わたしは社会復帰した。
生まれた子は男の子だった。聡(さとる)と名付けた。
妊娠と出産と育児の期間、頑張って資格を取った。夫の死後、本当に死に物狂いで努力し、医療事務の資格を取った。そのおかげと、夫の友人であった医師の紹介もあり、派遣ではなく正社員として働ける職場を得た。
亜弥と聡は、夫のご両親が変わらずサポートしてくれ、すごく助かっている。帰る場所も変わらず、夫の実家だ。
ご両親は子供たちをすごくかわいがってくれる。
わたしは33歳になっていた。亜弥はこの春、小学校に上がる。
前年の7月に生まれた下の子、聡は成長が早く、先日、自分の足で立って、少しだけ歩いた。
子供たちの成長だけが、わたしの生きがいだった。
ある日、勤め先の病院の食堂でお弁当を食べていると、近くの看護士たちのひそひそ話が耳に入った。どうやら院内のある医師と看護士の不倫についての噂のようだった。
病院はわりとそんな話が多いと感じる。けれど、不倫はこりごりだ。
まして、今のわたしは聡史のことが忘れられない。もうずっと恋している。
もう生涯、あの人でいい。あの人がいい。
生きている間に会えなくても。
わたしは同じ人に二度、恋をした。
決して褒められない、人には罵倒されるような経験のあげくだったけれど。
でも、二度目のすごく強い恋のさなかに、その人を亡くしてしまった。
子供がいなかったら、そして仕事を応援するというあの人の言葉がなければ、わたしはあのときにもうだめになっていただろう。
子供たちのために働く。そして聡史のかわりに、子らを一人前にして独り立ちさせる。
そのときまで、あの世でも、天国でも、なんでもいい。
待っていてほしいと思う。
もしかしたら彼は迷惑かもしれない。
けれど、許してほしい。わたしは彼の元へ行って、またあのときのようになりたい。そればかり切望してしまう。
聡史のことが好きすぎて、今でも心底愛していて、他のことはもうどうでもいい。
自分の償いは自分の役目を果たすこと。
それだけが今の目の前にあること。
いい加減にはしない。絶対に。
亜弥も、聡も、めいっぱい愛する。育てる。わたしみたいな馬鹿な過ちを犯さない子に育てる。
子らが大きくなったときには、わたしの過ちも含め、すべてを伝えようと思う。あなたたちのお父さんが、どれだけ素晴らしい人であったか。子供たちやわたしを愛してくれていたか。
そうして……
それを終えたら、もういいよね?
一周忌の法要が執り行われた。
お寺での法要には、親戚だけではなく、聡史の主治医であった友人医師の姿もあった。なんでも、親御さんに聡史が頼んでいたらしい。一周忌には必ず彼を呼んでほしいと。
わたしは聞かされていなかったけれど、病床の彼からそんなことをいわれたら、ヒステリックに拒絶したかもしれない。わたしは最後の最後まで奇跡を信じたかった。けれど、彼はとっくに覚悟ができていたようだ。
法要の後、近しい親戚と友人医師を交えての会食があった。まだ一年――湿っぽい会食だった。
その最中、友人医師が「ちょっといいですか」とわたしに耳打ちした。
わたしは席を離れ、友人医師と会食会場の外へ出た。
彼は懐から封筒を取り出し、差し出してきた。
「預かっていたものです。子供も生まれ、少し気持ちが落ち着いているようだったら渡してほしいと」
「え?」
「聡史からです」
手に取ると、わたしの名前が聡史の字で表書きされていた。封はされたままだ。
「お詫びしなければならないことがあります」
友人医師は頭を下げ、告白した。
じつは、聡史の癌の発覚は、本当は2011年の1月だったと。その段階ですでに手遅れで、手術をしたところで延命にしかならないとわかっていた。
医師としては手術を勧めた。万に一つの可能性もあるといったが、やはり気休めだった。それは聡史もわかっていたようだった。
この段階で余命半年、という診断だった。
そこで聡史は、「このことは誰にも黙っていてほしい。親にも。手術は受けるが、ポリープか何かということにしてほしい」といった。
聡史は会社に自分の本当の病状を伝え、部署の転属を願い出た。会社は過去の彼の功績を高く評価していて、これまで無理をさせてきた事実もあった。すぐに1月から時間の取れる部署に移ることができた。そして、この事実は会社にも秘密にしてもらったという。
ポリープという名目で手術を受け、そして聡史は、自分の病状については黙したまま、そこから復縁のために動き出したのだと。
「なんで、そんなことを……。なぜ主人はわたしやご両親にまで秘密にしていたんでしょうか」
わたしは手紙を手に握りしめたまま、医師に問いかけた。
「わかりません。あなたに負担をかけたくなかったのか、真意は自分も聞いていません。ただ、驚くべきことがあります。これは聡史から、絶対にあなたに伝えてほしいといわれていたことです」
「なんでしょう」
それは…と彼が語ったのは、復縁後、5月下旬の検診で、聡史の病状は奇跡的なほど持ち直したということだった。
もしご要望があればカルテもレントゲンもお見せする。彼の癌はもういくつかの部位に転移していたのだが、一時的にそれが小さくなったのだと。
その前月、わたしと聡史はもう一度ちゃんと結ばれることができていた。
「もしかしたら、と思いました。このまま奇跡が起き、彼が回復するのではないかと、本当に思った」
が、8月に再手術になってしまったのは、その癌細胞が再び大きくなってくるのが確認されたからだと。
「聡史は言っていました。このまま癌で亡くなったら、かならずあなたは自分のせいで夫が亡くなったのではないかと思うと。たとえば復縁のストレスとか、そういうもので追い詰めたのではないかと」
その通りだった。
わたしのせいではないかと、ずっと思っていた。
「ですが、そうではないんです。あなたとやり直せたことで、聡史の病状は回復していたんです。医学的にはほとんど奇跡的に。だから、あなたにこの手紙を渡すときに、その事実を伝えてほしいといわれていたんです。もっと早くにお伝えした方が良かったのかもしれませんが、お子さんの出産などもあり、タイミングを躊躇している内に今になってしまいました。申し訳ない。一周忌には招くように親御さんに伝えてあるので、遅くともそこでこの手紙を渡してほしいと依頼されていたんです」
涙ながらに伝えてくれた。
わたしは呆然と手紙を手にたたずんでいた。
帰宅後、子供たちも寝静まってから、わたしは手紙を開封した。
こわかった。手が震えた。
なにがこわかったのか、よくわからない。今さらのように聡史から恨み辛みをしたためられているのではないかとか、そんな妄想も頭をよぎった。
もちろんそんなことをする人ではないと信じていたが、わたしが過去に行った罪の根深さが、そんなことさえ思わせた。
愛する――
そう、そういう書き出しとわたしの名への呼びかけで始まっていた。
これを君が読むとき、自分はもうこの世にいないはずです。
最初に言いたい。
ありがとう。もう十分に償ってもらいました。
本当はそんなことを言うために書いているのではないです。僕の気持ちを伝えるために書いていますが、たぶん君が償いきれないうちに僕が死んでしまい、もしかすると僕の病気のことも自分のせいではないかと思っていると、推測しています。
当たった? その通りじゃない?
ハハ。
実は僕は超能力者なんだ。
ていうのは嘘だけどね。
その程度のことは、わかるよ。
君のことは、よくわかってる。長い付き合いだから。
それに、君が今の僕をすごく愛してくれて、僕や亜弥、それにお腹の子のことを、ほかのどんなことよりも考えて、自分を滅して、尽くしてくれていることがわかってる。両親への振る舞いをみていても、それはわかる。
だから、まず言いたい。
もう十分に償ってもらったよ。
君の償いは、「僕がちゃんと再び君を愛せるようになったこと」です。
言っている意味、わかるかな?
僕は今、ちゃんと君を愛せている。
以前のように。
いや、違うな。以前よりも、ずっと。
交際が始まった20歳の頃より、結婚した頃より、今の君が愛おしく、大切に思う。
そうなれたのは、すごく幸せなことで、そうなれたのは君がもう一度、信じさせてくれたから。
むろん100%の信頼なんて、普通にどんな夫婦だってなかなかできないけれど、以前、何も考えずに無条件で信じ込んでいたのと違う意味で、僕は君を信じられる。
なんていうのかな。
そう、君がもう一度僕に信じようと思う勇気を与えてくれた。
少し順を追って説明します。
僕の癌は2011年の初めにはわかっていました。その段階で、余命は半年とあいつに告げられました。あの馬鹿医者です。ま、悪く言っちゃいけないんだけど(笑)。
あいつはできのいいやつで、医者としても優秀らしい。
そのとき僕が考えたのは、半年という限られた時間の中で、自分の残された命をどう使うか、何ができるのかということでした。余命を宣告され、ショックだったけど、限られた残りの時間だからこそ、真剣に考えた。
人は皆、本質的には限りある命なんだけど、本当に先のタイムスケジュールが見える形で突きつけられてしまった。
正直に言います。
最初に考えたのは、亜弥のことでした。
亜弥は一度、母親を失う経験をさせてしまっています。ごめん。君には痛い言葉だと思うけれど、どうか読み進めてほしい。そうさせたのも自分です。
母親と離別、今度は父親の僕がこの世を去ってしまう。確実に。
親を失うという体験は、人生のどこかで起きることだけれど、まだ幼い亜弥にとってはあまりにも酷だと思った。さいわい、亜弥は君のことが好きだ。今まで黙っていて申し訳なかったけれど、亜弥がパパとママと一緒にいたいと願っていたというのは感じていた。
それができなかったのは、自分のせいです。
あのときの心の傷が、どうしても癒えなかった。あ、これは、君を責めるために書いているのではなく、今はもう癒えたと感じているから、そうはっきり告げています。
でも、とにかく亜弥のために、母親だけはそばに戻してやりたかった。
余命を告げられなければ、君との復縁はまだまだずっとできなかったかもしれない。
亜弥の次に考えたのが君のことです。
もしこのまま自分がこの世を去ったら、君はどう思うだろうと考えた。君はずっと僕たちに償いをし続けなければと考えていたよね。それは見ていてわかる。でも、僕が死ねば、君は償いをする対象を失い、またこのような形で僕が亡くなってしまったことにすら、きっとすごい責任を感じて、もっともっと深い後悔の中で人生を生きなければならなくなる。
そんなふうになってほしくなかった。
それに、僕自身、あのときのままの状態でこの世を去りたくなかった。
それは、悔しいと思った。それでは、何か負けるような気がした。
誰にというわけでもないんだけど。たぶん、自分自身にだと思う。
だから、僕と君の関係を何らかの形で取り戻したかったんだ。
それに、この残り少ない命を、より価値あるものにしたかった? なんかそんな思いもあった。
あ、君との復縁は、癌になった自分のお世話をしてもらうためじゃないよ(笑)。そんなこと思ってないと思うけど、念のため。
復縁を実行すると、君はもう一度、僕を失うことになって、すごく辛い経験になってしまうとわかっていた。
そのことも考えた。
でも、ここはわがままを通すことにした。ごめん。
僕は君という存在を自分の人生に取り戻したかったし、それに矛盾しているかもしれないけれど、残された命で君を解放したかった。
君が僕たちに償いをし続ける人生ではなく、君と僕がもう一度愛し合える人生にして終わりたかった。
それが僕が最後にできることだと思った。
末期癌であることを隠していたのは、それを告げての復縁だったら、君は僕に対して償いという姿勢でしか関われないと思ったから。
そんなんじゃない。もう一度、当たり前の夫婦になりたかった。
生きている間にそれができるかどうか、癌と発覚するまでにできるかどうか、時間との闘いだった。
でも、限られた命だからこそできると思った。
それはできた、と感じている。
僕は満足だ。
悔いはない。
あ、いや。違うな。
もう少し自分の健康を管理しておけば、こんなことにはならなかった。
仕事仕事で、少々の不調など無視し続けて、この結果だ。
かわいい亜弥の顔をもっと見ていたかった。
かわがってやりたかった。
生まれてくる子にも会いたかった。
子供たちの成長を見守りたかった。
成人式。結婚式。孫の誕生。
どれもこれも本当に見たいよ。
でも、もう見られない。
子供が手を離れてから過ごす君との暮らし。
もう、その全部を見ることができないし、体験することもできないけれど、天国からは必ず見守る。
君も幸せになってほしい。
もう僕からは解放されて。
僕は君を取り戻し、半年と言われた余命が、少し伸びたみたいだ。
復縁して一年。
人生最高の一年だったよ。
僕も君にもう一度恋をした。大好きだよ。
君にはこれからの人生、きっと長い時間がある。
その時間を大切に使ってほしい。
子供たちのこと、よろしく頼む。
そして、君自身が僕から解放されて、幸せになることを願う。
本当に願う。
だから、そんなチャンスがあったら、迷わずそれをつかみ取ってほしい。
遠慮なんかするな。
それが僕の望みだ。
まだまだ告げたいことはたくさんあるような気がするけれど、最後にかけたい言葉はやはりこれだけだ。
愛している。ありがとう。
読みながら、手紙を握る手がぶるぶる震え続けた。
泣いた。
子供たちを起こさないように、声を押し殺していたけれど、読み進めるうちに我慢できなかった。彼の名を呼びながら、号泣した。
月日は流れる。
子供たちは成長していく。
それでも――
わたしはずっと聡史のことを思い続けている。それは何も変わらない。
春が訪れるたび、桜が咲くたび。
わたしはそこかしこに彼の思い出をあたためる。
幾度も思い出し、泣いたりもする。少しずつ微笑めることもある。
春の彼の命日には、いつもお参りをする。
今年、早咲きの満開の桜の下、花びらがいっぱい墓に散っていた。
掃除をし、草取りをし。
花を供え。
わたしは語りかける。
「あなた、亜弥は今度もう6年生だよ。いいお姉ちゃん。聡は小学校に上がるよ。やんちゃよ。誰に似たんだろうね」
「お義母さん、こないだぎっくり腰になってね、大変だったのよ」
「お義父さん、あれでけっこう優しいね。今、家で看病してるの」
「それからね、こないだ家に野良猫が来てね、亜弥がね……」
些細なことから大きなことまで報告しながら。
「桜餅、買ってきたよ。あなたの好きなお店の」
供える。
「ママ!」
亜弥が呼び走ってくる。その後ろから、頑張って聡がついてくる。わたしは立ち上がり、少し腰をかがめて二人の子らを迎える。
ざっ、と風が吹いた。
桜の花びらが、たくさん舞った。なんだか、喜んでいるみたいに。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
☆ この物語はフィクションです。ブログ小説についてをご覧ください。
2018年3月18日日曜日
新月メッセージ 03/18
昨夜、22時11分ごろ、魚座26度で新月でした。
仲秋の名月が、澄み切った秋の空を照らすというサビアンシンボル。
今は秋じゃないですけど。
この仲秋の名月というのは、「収穫月」という意味です。
成就ということに関わっています。
画像はアマテルで作成→高機能 占星術ソフト・アマテル
実際、このチャートの様相はとても豊かです。
ここで成功したり成果を上げたり、満足感や達成感に浸ることもできます。
何かを完成させること。
技を極めたり、熟したり。
そういうと、なにかとても物質的に満たされそうな印象を受けるかもしれません。
実際、このチャートのバックアップを受ける方にはそういう傾向が現れるかもしれません。
しかし、ここではキロンの働きが極大化します。
意識を高次へ上昇させるという、一見、目立たないけれど、とても重要な経験をする方も現れます。
しかし、ある種の運勢的なピークでもあるため、次のサイクルへの始まりでもあります。
この新月の間、21日には春分図がやってきます。
大きな節目で、受け渡しが行われます。
良い新月期をお過ごしください。
◇ メッセージ
さあ、時が参ったぞ。
終わりの時、始まりの時。
この一年をまとめ上げるとき。
遠慮なくそなたがつかめるものをつかみ取れ。
分に相応して用意されておる。
さあ、時が参ったぞ。
終わりの時、始まりの時。
ここから始めるが良い。
恐れずそなたが進む道、歩き出すが良い。
何を選ぶのも自由ぞ。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
仲秋の名月が、澄み切った秋の空を照らすというサビアンシンボル。
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ここから始めるが良い。
恐れずそなたが進む道、歩き出すが良い。
何を選ぶのも自由ぞ。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月17日土曜日
桜餅 前編ーキロンの物語1ー
いつもと同じ路線バスを降り、スーパーで買い物をした。
一人分の買い物。すぐに終わるが、レジに向かう途中で桜餅があるのに気づいた。三個入り。それをかごに入れた。
買い物の短い時間で、日はすっかり落ちてしまい、街は暗くなった。
アパートまで五分の道のり、同じように帰宅途上の人の群れに混じって、塾帰りだろうか、中学生になるかならないかくらいの女の子がわたしのそばを駆けていく。
「ママ!」
そう言って戸建ての住宅の前で自転車を止めた女性のところへ。
笑顔になって迎える母親。
二人は一緒に家に入っていく。
そんな当たり前の光景を見るたびに胸が締め付けられる。
誰のいないアパートの部屋に帰宅。
出迎えてくれるのは、下駄箱の上に置いている写真立てだ。いつも出かけるときに玄関に置くようにしている。
その中で笑っているのは、私の夫であった人と離れている子供、そしてわたし。
その写真立てをワンルームの部屋の中にある小さなテーブルに戻す。
「ただいま」
そう言ってみるのも日課だ。
この日課があまり辛くなくなったのは、最近のこと。前は声をかけるたびに泣いていた。でも、声をかけずにおれなかった。
何か音がほしいという理由だけで、昨年、寿退社が決まった同僚から譲り受けた古いテレビをつけた。
ニュースをやっている。
――本日11時45分ごろ、宮城県の沖合でマグニチュード7.3の大きな地震が発生し、津波注意報が出され、大船渡市などで0.6メートルの津波が観測されましたが、地震による大きな被害はありませんでした。気象庁は今後も余震が心配されるとし、警戒を……
この頃、地震があちこちで多い。怖い。
買い物を冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中から小鍋を取り出す。
昨日作ったカレーはまだ二食分ほどある。今夜と明日の朝……いや、明日は残業確定なので、もう一度夜に回すことにしようと思う。
鍋をコンロの上に置き、スーパーのレシートを持って家計簿をつけた。今月は5万入れられそうだ。自分名義ではない通帳を開き、次の入金でとりあえずの目標である7桁になるのを確認する。
こんなこと自体、単なる自己満足かもしれない。
でも、こんなことでしか罪滅ぼしができない。
この二年半、いつか……ということだけを支えに生きてきた。
万に一つもないと、頭ではあきらめている。
でも、いつか、と思うしかなかった。そのために、何か形になるものを残しておきたかった。それが別れた夫名義の通帳だった。
カレーの前に、お茶を入れ、桜餅を一つ食べた。
桜餅独特の甘さと塩味、それから懐かしさと苦しさが、ないまぜになり……胸の中に何かが立ち上がってきて泣いた。
――桜餅、好きなんですか。
若い夫の声と表情が浮かび、それから堰を切ったように、いろんなことを思い出し、よけいに泣いた。
夫――聡史とは、大学時代に出会った。
同じゼミで、春に仲間たちでそれぞれ好きなものを持ち寄って花見をしようという話になったとき、初めて親しく話をした。
お酒が飲める学友たちはビールなど持ち込んでいたが、わたしはお酒が好きではなかったし、彼も一滴も飲めない体質で、しかも和風の甘いものが好きだという共通項をこのときに発見した。
それもお汁粉とかぼた餅とか落雁とか。
わたしは桜餅も持ち寄っていたので、彼は目を輝かせた。
「桜餅、好きなんですか?」
「あ、はい。おいしいですし、ほら、きれいじゃないですか」
「俺も桜餅、大好物なんですよ。実家のすぐ近くに和菓子屋さんがあってね、そこのがすごくうまいんですよ」
「よかったら、どうぞ」
「やった。ありがとう」
わたしたちの頭上には、満開の桜が淡い光の帯のように広がっていた。
それからわたしたちは交際するようになった。
大学を卒業後、それぞれに就職したが、交際は続いていた。
二人が25歳になる年、結婚した。その二年後、子供を授かり、わたしは仕事を辞めた。
翌年、生まれたのが亜弥だった。
ちょうどその頃から、聡史に出張が多くなっていった。勤め先が急速にフランチャイズを拡大している外食チェーンで、彼は新店舗立ち上げに関わる部署で勤務していたため、一週間、あるいはひと月くらいの出張もざらだった。
この頃、会話も減った。
帰宅しても、聡史は疲れ切っていることが多く、夫婦の会話も減っていた。
そして、わたしは不倫をしてしまった。
何も言い訳はできない。当時の自分があまりにも未熟で、おかしかったとしかいいようがない。
当時、わたしは何も楽しみがないように感じていた。特にこれといった趣味もなく、秀でた職能があるわけでもなく、ただ子育てをし、夫は仕事ばかりで見向きもしてくれないと、勝手に思い込んでいた。
そんなとき大学時代の学友・明山と街で偶然に再会した。
明山は聡史と共通の友人だったが、本当はわたしに好意を寄せてくれていた男性だった。聡史との交際中に一度告白されたが、もちろん断っていたし、そのためか自然と疎遠になっていた。
明山はある自動車のディーラーで販売員として勤務していた。懐かしさもあり、しばらく話し込んで、連絡先を交換した。
しばしばメールが来るようになり、日常の不満や子育ての辛さや細かい苦労を彼に相談するようになっていた。彼もまた既婚であり、奥さんとの関係での悩みを打ち明けてきて、お互いに癒やしを求めるような関係に。
肉体関係になってしまったのも、そんなに時間がかからなかった。
「まだ若いんだし、僕たちにだって楽しみが必要だよ。絶対バレたりしないし、家庭さえ壊さなければ何も問題ないよ」
当時のことを思い出すと、そのたびにうめき声を上げたくなる。
愚かな自分を責め、失ったものを悔い、なによりも夫を深く傷つけてしまった罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、当時のわたしにはそんな危機感はなく、明山との交際に酔っていた。
「家庭さえ壊さなければ――」という呪文を繰り返し心で唱え、壊れるはずもないと考えていた。
自分が他で心が満たされる分だけ、気持ちのない夫にも優しくなれた。
聡史はその頃からどこかよそよそしくなり、さらに会話も減っていった。疲れているといって、わたしとのセックスも拒むようになっていた。
その反動で、わたしの心はよけいに明山に向かってしまった。
明山とは心に深い絆が生じ、何でもわかり合える相手だと錯覚した。夫の留守中に子供を実家に預け、幾度も逢瀬を重ねるうち、「家庭を壊さない楽しめる関係」から、妄想が膨らんでいった。
いつかお互いに離婚して、新しい家族になろう。
何があっても僕が君を守る。
わたしもあなたと暮らす日が一日でも早く来るのを願っているし、毎日の支え……。
夢物語を言葉やメールで語り合っていた。
わたしは明山との交際期間の半年、夫の変貌にほとんど気づかなかった。
夫はその半年の間に、すごく痩せていた。体重にして、10㎏近く落ちていた。どこかで意識することがあっても、仕事が忙しいのだなということを、まるで他人事のように思っていた。
でも、夫はすべて知っていたのだ。
それも、ごく初期の段階から気づいていた。
ある平日の昼間、わたしは明山を夫や子供と暮らす賃貸マンションに招き入れた。それが初めてではなかった。子供はうまいこと言って、やはり親元に預けていた。明山とはディーラーの休日、水曜日の昼間に会うことが多かったのだ。
毎回、明山がマンションにいた痕跡は完全に消していた。ベッドのシーツも取り替えていたし、部屋も隅々まで掃除していたし、性交渉に関するものはすべて自宅内から持ち出し処分した。その足で、娘を迎え帰宅すると――
夫がすでにリビングにいた。ギクッとした。いつもは深夜帰宅が当たり前なのに――。
「お帰り――」
屈託のない笑顔。2歳になったばかりの亜弥が「パパ」といって駆け寄っていき、彼が抱き上げる。平静を装って尋ねる。
「どうたの。早いね、今日は――」
「うん、だって、今日は結婚記念日だろ。定時で上がってきた」
ショックを受けた。結婚記念日だということを、わたしはすっかり忘れていた。ずっと夫婦で祝ってきたし、子供が生まれてからも、その日は特別な日として、わたしはごちそうを用意したりしていた……
「桜餅、買ってきたんだ。ほら、いつか言ってただろ。駅前にできた新しいお店。あそこの」
「あ、ありがとう。ごめんなさい。わたし、うっかりしてて」
「いいよ。おまえだって、子育てで大変なんだから」
「ごめんなさい」
「じつはさ、寿司を取ってあるんだ。さっき頼んだから、もうすぐ届くと思うよ。それでお祝いしようよ」
「ごめんなさい……」
わたしは本当の意味で謝っていなかった。結婚記念日を忘れていた失態をどう取り繕うか、ごまかすか、そのための言葉だった。
今日何をしていたかと問われたとき、なんと答えようとか、そういうときの言い訳は日頃から用意していた。でも、この日ばかりは言い訳を用意していながらうまくごまかせそうにないと感じた。
けれど、夫は何も問わなかった。
寿司が届き、夫は珍しくよく食べた。もうずっと夕飯は済ませてくることが多く、わたしの作ったものは口に入れてもすぐに箸を置いていた。
この夜は、上機嫌で、これも滅多にないことなのだが、いつかの頂き物で冷蔵庫に収納されっぱなしだったビールを飲んだ。社会人になった後も、体質的にほとんどアルコールを飲むことはなかったのに。
その夜、夫はわたしを求めてきた。
夫はずっとセックスレスだった。明山に気持ちが行っていたわたし自身、それを好都合と感じていた。夫に抱かせたくないと、時々、明山が心配していたからだ。
しかし、この日は拒めなかった。
交際期間を通じて、きっと初めてだというほど、夫はわたしを強く求めた。幾度も。
わたしはうれしかった。
自分が忘れていた結婚記念日を大切にしてくれたこと。
このところずっとなかったような笑顔を見せてくれたこと。
こんなふうに自分を欲してくれるのなら……とさえ思った。その後ろ側で、同じ日の昼間、明山に抱かされていた罪の意識が胸を締め付けた。
明山とは別れた方がいいのかもしれないと刹那、思った。
翌朝、目が覚めると、ベッドに夫はいなかった。
トイレに起きたのかと思い、リビングに出て行った。「あなた」と呼びかけたが、気配はなく、テーブルには昨夜の桜餅と、その横に一枚の便せんと緑の用紙が並んで置かれていた。
――すべて知っています。
頭が真っ白になった。
わたしはたぶん、かなり長い間、その一枚の便せんの文字を見つめ、その場に凝固していた。そして、隣の離婚届に記入されている夫の署名と捺印を交互に見つめていた。
「すべて知っています」という言葉の意味が、ちゃんと頭に入ってくるまでに、とても長い時間を要したように感じた。
理解することを、たぶん拒否していたのだと思う。
娘。
あるとき、頭の中でつながり、わたしは寝室に駆け戻った。「亜弥! 亜弥!」と叫びながら、ベビーベッド(まだ体が小さいので、そのまま使っていた)を確認した。
寝室の隅々まで確認し、次にはマンションの隅々を確認し、玄関のドアを開け、通路を確認した。
そこからは我が家が契約している駐車場スペースも確認できた。そこにうちの車はなかった。
このとき、わたしはわなわなと震えた。
正常な思考はほとんど蒸発していた。
夫に電話をかけた。出ない。幾度もかけた。出ない。
次にしたのは、震える指で明山にメールを送ったことだった。今の状況の説明、夫が何か言ってきていないかということ。
しかし、早朝だったためか、明山はなかなか返信をよこさなかった。
明山からの返信を待ちきれず、次に夫にメールを送った。
どうしたの。どこにいるの。何を言っているのかわからない。誤解です。話をしたい。娘をどうしたの。お願いです。連絡をください。
そんな内容のものを何十回と送った。
その間に明山からのメール返信があった。
なにもない。どうしたの、いったい。まさかバレたの?
そんな内容だった。明山に電話した。
「ばか。こんな時間に電話かけてくんなよ。気づかれんだろ」
「だって……」
「ちょっと待て」
移動し、洗面所に入ったのか、トイレを流す音。
「マジでバレたのか」
「わからない。でも、すべて知ってるって。離婚届が置いてあって、聡史はもう記入してあるの」
「とにかくしらを切り通せよ」
「でも、もし本当に全部知られていたら」
「僕はうまくやってたんだよ。そっちのことはそっちの責任で処理してよ」
耳を疑った。
「なによ、それ……。なにかあったら守るって言ったじゃない」
「今はちょっといろいろまずいんだよ。嫁さんの実家のこともあって……」
後の言葉は、ほとんど耳に入ってこなかった。言い訳ばかりだったことは、なんとなく印象に残っていた。
何かあっても個別の夫婦間のこと。
配偶者にバレたのなら、それは本人の責任。
だから、何かあったのならそちらで処理しろ。
言葉は柔らかくだったが、言いたいことはそれに尽きていると感じた。
電話を切られ、わたしは誰もいなくなったリビングで膝をついた。
異常に呼吸が荒く、気分が悪かった。自分が真っ青なのがわかる。血圧が異常に下がっているような感じだった。
床に頭を打ち付け、意識を失ってしまった。
しばらくして、手に握りしめたままの携帯電話のバイブレーションで目が覚めた。
意識が回復したとき、「ああ、夢だったんだ! よかったよかった!」と心底喜んだ。しかし、自分が倒れていた場所がリビングの床だったと気づき、これは紛れもなく「続き」なのだと知った。
そのときの真っ暗な絶望感――
今一度、意識が遠のきかけた。しかし、手の中で震える携帯電話のディスプレイにメールの表示があり、夫からのそれだと知り、慌てて開いた。
「本日中に弁護士から内容証明が届きます。以後は弁護士を通してください」
そこから後のことは、もう思い出したくもない出来事の連続だった(思い出したくもないと言っても、絶対に忘れることなどなどできない。むしろ終生忘れることなどできない)。
わたしの実家から、内容証明を受け取った両親がその日のうちにやってきた。そして、力尽くでわたしを実家に連れ戻した。父に殴られた。29年(当時)の人生で、父に手を上げられたことなど、一度もなかった。
父は涙を流して殴っていた。母も横で止めながら泣き叫んでいた。わたしを責めるよりも、わたしへの教育が十分にできなかったことの懺悔をしていたのが、父の手よりも痛かった。
それから数日、わたしは抜け殻のように実家で過ごした。その間、幾度も夫にメールを送った。電話もした。しかし、何の反応もなかった。
明山からはパニックのようなメールが大量に来ていた。彼の自宅にも内容証明が届いていて、奥さんにも知られるところとなっていた。気づかれたわたしのことをなじっていたかと思うと、一転して優しくなったり、口裏合わせしてなんとかごまかす算段を提案してきていた。
両親に問い詰められ、すべてを告白してしまったわたしには無意味だった。
こんな男にのぼせあがっていたんだ……
自分に失望した。これほど深く失望したことはなかった。
三日目のあるとき、わたしは実家を抜け出した。
そして、住んでいたマンションに戻った。
そこに夫も娘もいなかった。
多くの家財がすでに運び出されていた。あるのは、わたしの私物だけだった。
そして――
寝室のダブルベッドが切り裂かれていた。
シーツもマットも掛け布団も。
部屋には羽毛布団の羽根が散乱していた。
わたしは夫の怒りの強さを知った。そして瞬間的に悟った。
恐ろしいことを――。
あの結婚記念日――夫は、わたしが明山とマンションで会ったことも知っていた。このベッドで何が行われていたか知っていたのだ――。
切り刻まれたベッドの残骸はそれを物語っていた。
そう悟ってやっと、愚かにもわたしは「もしかしたら」と考えることができた。
もっと前から夫は知っていたのではないか。
だから、わたしの作ったものなど食べることができなくなり、日常的なストレスから痩せてしまったのではないか。
眠るときもベッドはあまり使わず、リビングのソファで仮眠をすることが多くなっていた。ベッドはいやだったのではないか。
もしかしたら、わたしが拒絶されていると思ったセックスも……わたしの不倫が先で、それを知ってしまったから……
妻が浮気相手を招き入れ、行為をしているとわかっている部屋に毎夜戻ってきて過ごしていた夫の気持ちを想像し、ぞっとした。
怖くて震えた。自分のしでかしたことのあまりの残酷さに。
自分が怖かった。
謝りたかった。ちゃんと夫に謝りたかった。
ごめんなさい、あなた! ごめんなさい! ごめんなさい!
号泣した。そこで、何時間も泣いていた。
弁護士に指定された面談会場で、ようやく夫に再会することができた。
すぐに土下座した。一緒に来た両親も。
決壊したように涙があふれ、みるみる床に水たまりを作った。
わたしは自分が何をしゃべっているのかも、よくわからないほどだった。懺悔の言葉と許しを請う言葉を、えんえんと繰り返し吐いた。叫ぶように。
どうか捨てないでほしい。なんでもする。一生かけて償います。
しかし、夫は「お義父さん、お義母さんが謝る必要はないです。頭を上げてください。ちゃんと話をしましょう」といった。
何日かぶりで聞く夫の声は、驚くほど冷静だった。いや、冷静というよりも、まるで心ここにあらずというような。
夫は落ちくぼんだ目に、なんともいえない影を映していた。痩せていた。ガリガリだ。ぼーっとしているように見えた。その姿は、あの切り刻まれたベッドとはどうしても結びつかなかった。怒り狂って罵倒される覚悟で来たのだ。
弁護士が冷静な言葉で、その後を進行させた。事情聴取され、事実の確認が行われた。嗚咽でうまくしゃべれなかったが、正直に何もかも語った。
「ここ数ヶ月の不貞の証拠があります。こちらでわかっていることとの矛盾はないようですね」
やはりそうだったのだ――
離婚が提示された。共有財産の分与はあり。わたしへ慰謝料請求をしないかわり、親権は夫。
「お願いです。離婚だけは許してください。いやです。亜弥とも離れたくない……」
弁護士は有責配偶者であるわたしが拒絶しても、裁判になれば離婚は確定するといった。
父がそこで再び土下座した。
「聡史君、すまん! 本当に申し訳ない! 私たちの教育が悪かったと思う。慰謝料の請求はしないという話だったが、ちゃんと慰謝料を払わせてくれ。できるかぎりのことをさせてもらう。だから――だから、もう一度だけ、娘にチャンスを与えてくれないか」
「お願いします!」
わたしも土下座した。母も床に手をつき、泣きながら懇願してくれた。
「やめてください。顔を上げてください」
物憂げに夫はいった。弁護士にもいわれ、わたしたちももう一度席に戻った。
「離婚させてください。お願いします」
逆に夫から請われた。
「もう無理です」
うつろな目をしていた。
そして語った。
わたしの浮気に気づいたのは、共通の知人からの目撃情報だったらしい。ホテルから出てきたのがわたしに見えたと(これが、不倫のごく初期の頃だった)。
信じられなかったが、わたしのことを信じたくて、悪いと思いながら少しずつ調べた。自分に対しては着用することもない、わたしの下着に派手なものが増えたことや、外出が増えたこと。いつも携帯のメールばかりしていること。その携帯を以前はリビングに放置していたのに、風呂場や洗面所にまで持って行くこと(携帯はロックしていたので見られていなかったし、わたしは明山とのメールや通話記録はすぐに削除していた)。
出張がちだったため、決定的な証拠をなかなか見つけられなかった。結果、半年もかかってしまった。
3ヶ月前、とうとう夫は出張と偽り、わたしの行動を確認したのだと打ち明けた。知らず、わたしは明山と会っていた。わたしの不貞にもひどいショックを受けたが、相手が大学時代の友人だったことで、さらに深く傷ついた。
その後は弁護士に相談し、興信所にも依頼した。お金はやがて戸建てを購入するときのために二人で貯めていた資金を使った。
出張で家を空けるたび、気が狂いそうになった。
わたしの作るものが汚らわしく思え、いつも吐いていた。
3回程度、はっきりとした不貞の証拠があったほうがいいといわれ、待ち続けた。その間に、自分の中にあった愛情がカラカラに乾いてしまった。家に帰ると、何事もなかったように振る舞うわたしがいて、それを見続けているうち、あるとき、自分の愛した女性はもうこの世にはいないと思った。すると嫉妬とか怒りとかも、もうあまり感じなくなってしまい、だから、あの家に戻っても、なんとか平然と振る舞えた。
――もうこの世にはいない。
その言葉に打ちのめされるとともに、自分がいかに夫を長く、深く傷つけ続けていたか知った。罪悪感と自己嫌悪で胸が押しつぶされそうだった。
娘だけが唯一の救いで癒やしだったと、彼はいった。
「お願いだから、娘を取らないでほしい。こちらに渡してほしい。娘だけが今の自分の生きがいなんだ」
彼の言葉を聞きながら、わたしは泣き続け、必死で言葉を送った。
「わたしも……娘と別れたくない。あなたとも……」
「君は亜弥が風邪で調子が悪かったときも、実家に子供を預けて明山と会っていたよね」
特に責める口調ではなかったが、すごく痛い事実を突きつけられた。本当にどうかしている。なにをやっていたんだろう……
「こないだ、最後に君と過ごしたけれど……。あれが自分の中の最後。あれは愛情なんかじゃなかった。むしろ怒りで抱いた。申し訳なく思う。仮面の笑顔で、あんなことができてしまう自分になってしまった。本当は嫌悪感でいっぱいで、後で吐いた。もう夫婦ではいられない。無理だと思う」
わたしは号泣した。
壊してしまった。この人を。
わたしが好きだったあの笑顔、声。
それは二度と戻らないと思い知らされた。
わたしはすべてを受け入れ、離婚した。
当然のことながら、聡史は明山にも制裁を行った。慰謝料の請求。会社の勤務中の行為もあったため、管理責任が勤め先にも問われ問題になり、退職。やはり離婚。
その後幾度か連絡があったが、わたしは拒絶した。馬鹿な幻想はとっくに覚めていた。
月に一度、亜弥に面会することは許された。
亜弥は聡史の実家で、親御さんのサポートを受けながら育っていた。
今、5歳。
亜弥に面会させてもらえるときの聡史は、いつも穏やかでいてくれた。
過去のことを何も蒸し返すこともない。けれど、時折、すごく苦しそうな表情をすることがあった。
あの病的に痩せた状態からは回復していたが、一番体重があったときよりもかなりスリムだった。
独り身のままだった。
いつかもし許してもらえることがあれば――
どうしてもそれを考えてしまう。復縁など、そんなことを考えること自体、厚かましいと思う。
あの苦しそうな表情は、わたしがそばにいれば、あのときのことを思い出してしまうからだとわかる。
だから、彼のためには会うのもやめた方がいい。
でも、やはり会いたい。彼にも娘にも。
離れられない――わたしは自分勝手だ。
このままの状態でいい。
聡史と亜弥の幸福を願って、少し離れたところで見守っているだけでいい。それが許されるだけで感謝だ。
桜餅を三つも食べてしまった。
その間にまた盛大に泣いた。
こうなって初めてわかる。愚かだけど。
聡史と出会って、ともに過ごして、恋をして、結婚して。
共働きして。
喧嘩して。
子供が生まれ。
百日(ももか)の祝いを両家でして。
ハイハイやタッチでともに喜び。
ああいう思い出のすべてが家族であるということなんだと。
当たり前に朝起きて、「おはよう」といい、帰ると「おかえりなさい」といえる。
あの思い出たちの、そのままの先に行きたかった。
それはもうかなわない。わたしが壊してしまった。
面会は毎月第二日曜。
わたしは壁につるしてある2011年のカレンダーの前に立った。
今日の日付、3月9日に×をつけた。
面会の日は、3月13日――。
4日後だった。
――――「桜餅 後編に続く」
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
☆ この物語はフィクションです。ブログ小説についてをご覧ください。
一人分の買い物。すぐに終わるが、レジに向かう途中で桜餅があるのに気づいた。三個入り。それをかごに入れた。
買い物の短い時間で、日はすっかり落ちてしまい、街は暗くなった。
アパートまで五分の道のり、同じように帰宅途上の人の群れに混じって、塾帰りだろうか、中学生になるかならないかくらいの女の子がわたしのそばを駆けていく。
「ママ!」
そう言って戸建ての住宅の前で自転車を止めた女性のところへ。
笑顔になって迎える母親。
二人は一緒に家に入っていく。
そんな当たり前の光景を見るたびに胸が締め付けられる。
誰のいないアパートの部屋に帰宅。
出迎えてくれるのは、下駄箱の上に置いている写真立てだ。いつも出かけるときに玄関に置くようにしている。
その中で笑っているのは、私の夫であった人と離れている子供、そしてわたし。
その写真立てをワンルームの部屋の中にある小さなテーブルに戻す。
「ただいま」
そう言ってみるのも日課だ。
この日課があまり辛くなくなったのは、最近のこと。前は声をかけるたびに泣いていた。でも、声をかけずにおれなかった。
何か音がほしいという理由だけで、昨年、寿退社が決まった同僚から譲り受けた古いテレビをつけた。
ニュースをやっている。
――本日11時45分ごろ、宮城県の沖合でマグニチュード7.3の大きな地震が発生し、津波注意報が出され、大船渡市などで0.6メートルの津波が観測されましたが、地震による大きな被害はありませんでした。気象庁は今後も余震が心配されるとし、警戒を……
この頃、地震があちこちで多い。怖い。
買い物を冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中から小鍋を取り出す。
昨日作ったカレーはまだ二食分ほどある。今夜と明日の朝……いや、明日は残業確定なので、もう一度夜に回すことにしようと思う。
鍋をコンロの上に置き、スーパーのレシートを持って家計簿をつけた。今月は5万入れられそうだ。自分名義ではない通帳を開き、次の入金でとりあえずの目標である7桁になるのを確認する。
こんなこと自体、単なる自己満足かもしれない。
でも、こんなことでしか罪滅ぼしができない。
この二年半、いつか……ということだけを支えに生きてきた。
万に一つもないと、頭ではあきらめている。
でも、いつか、と思うしかなかった。そのために、何か形になるものを残しておきたかった。それが別れた夫名義の通帳だった。
カレーの前に、お茶を入れ、桜餅を一つ食べた。
桜餅独特の甘さと塩味、それから懐かしさと苦しさが、ないまぜになり……胸の中に何かが立ち上がってきて泣いた。
――桜餅、好きなんですか。
若い夫の声と表情が浮かび、それから堰を切ったように、いろんなことを思い出し、よけいに泣いた。
夫――聡史とは、大学時代に出会った。
同じゼミで、春に仲間たちでそれぞれ好きなものを持ち寄って花見をしようという話になったとき、初めて親しく話をした。
お酒が飲める学友たちはビールなど持ち込んでいたが、わたしはお酒が好きではなかったし、彼も一滴も飲めない体質で、しかも和風の甘いものが好きだという共通項をこのときに発見した。
それもお汁粉とかぼた餅とか落雁とか。
わたしは桜餅も持ち寄っていたので、彼は目を輝かせた。
「桜餅、好きなんですか?」
「あ、はい。おいしいですし、ほら、きれいじゃないですか」
「俺も桜餅、大好物なんですよ。実家のすぐ近くに和菓子屋さんがあってね、そこのがすごくうまいんですよ」
「よかったら、どうぞ」
「やった。ありがとう」
わたしたちの頭上には、満開の桜が淡い光の帯のように広がっていた。
それからわたしたちは交際するようになった。
大学を卒業後、それぞれに就職したが、交際は続いていた。
二人が25歳になる年、結婚した。その二年後、子供を授かり、わたしは仕事を辞めた。
翌年、生まれたのが亜弥だった。
ちょうどその頃から、聡史に出張が多くなっていった。勤め先が急速にフランチャイズを拡大している外食チェーンで、彼は新店舗立ち上げに関わる部署で勤務していたため、一週間、あるいはひと月くらいの出張もざらだった。
この頃、会話も減った。
帰宅しても、聡史は疲れ切っていることが多く、夫婦の会話も減っていた。
そして、わたしは不倫をしてしまった。
何も言い訳はできない。当時の自分があまりにも未熟で、おかしかったとしかいいようがない。
当時、わたしは何も楽しみがないように感じていた。特にこれといった趣味もなく、秀でた職能があるわけでもなく、ただ子育てをし、夫は仕事ばかりで見向きもしてくれないと、勝手に思い込んでいた。
そんなとき大学時代の学友・明山と街で偶然に再会した。
明山は聡史と共通の友人だったが、本当はわたしに好意を寄せてくれていた男性だった。聡史との交際中に一度告白されたが、もちろん断っていたし、そのためか自然と疎遠になっていた。
明山はある自動車のディーラーで販売員として勤務していた。懐かしさもあり、しばらく話し込んで、連絡先を交換した。
しばしばメールが来るようになり、日常の不満や子育ての辛さや細かい苦労を彼に相談するようになっていた。彼もまた既婚であり、奥さんとの関係での悩みを打ち明けてきて、お互いに癒やしを求めるような関係に。
肉体関係になってしまったのも、そんなに時間がかからなかった。
「まだ若いんだし、僕たちにだって楽しみが必要だよ。絶対バレたりしないし、家庭さえ壊さなければ何も問題ないよ」
当時のことを思い出すと、そのたびにうめき声を上げたくなる。
愚かな自分を責め、失ったものを悔い、なによりも夫を深く傷つけてしまった罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、当時のわたしにはそんな危機感はなく、明山との交際に酔っていた。
「家庭さえ壊さなければ――」という呪文を繰り返し心で唱え、壊れるはずもないと考えていた。
自分が他で心が満たされる分だけ、気持ちのない夫にも優しくなれた。
聡史はその頃からどこかよそよそしくなり、さらに会話も減っていった。疲れているといって、わたしとのセックスも拒むようになっていた。
その反動で、わたしの心はよけいに明山に向かってしまった。
明山とは心に深い絆が生じ、何でもわかり合える相手だと錯覚した。夫の留守中に子供を実家に預け、幾度も逢瀬を重ねるうち、「家庭を壊さない楽しめる関係」から、妄想が膨らんでいった。
いつかお互いに離婚して、新しい家族になろう。
何があっても僕が君を守る。
わたしもあなたと暮らす日が一日でも早く来るのを願っているし、毎日の支え……。
夢物語を言葉やメールで語り合っていた。
わたしは明山との交際期間の半年、夫の変貌にほとんど気づかなかった。
夫はその半年の間に、すごく痩せていた。体重にして、10㎏近く落ちていた。どこかで意識することがあっても、仕事が忙しいのだなということを、まるで他人事のように思っていた。
でも、夫はすべて知っていたのだ。
それも、ごく初期の段階から気づいていた。
ある平日の昼間、わたしは明山を夫や子供と暮らす賃貸マンションに招き入れた。それが初めてではなかった。子供はうまいこと言って、やはり親元に預けていた。明山とはディーラーの休日、水曜日の昼間に会うことが多かったのだ。
毎回、明山がマンションにいた痕跡は完全に消していた。ベッドのシーツも取り替えていたし、部屋も隅々まで掃除していたし、性交渉に関するものはすべて自宅内から持ち出し処分した。その足で、娘を迎え帰宅すると――
夫がすでにリビングにいた。ギクッとした。いつもは深夜帰宅が当たり前なのに――。
「お帰り――」
屈託のない笑顔。2歳になったばかりの亜弥が「パパ」といって駆け寄っていき、彼が抱き上げる。平静を装って尋ねる。
「どうたの。早いね、今日は――」
「うん、だって、今日は結婚記念日だろ。定時で上がってきた」
ショックを受けた。結婚記念日だということを、わたしはすっかり忘れていた。ずっと夫婦で祝ってきたし、子供が生まれてからも、その日は特別な日として、わたしはごちそうを用意したりしていた……
「桜餅、買ってきたんだ。ほら、いつか言ってただろ。駅前にできた新しいお店。あそこの」
「あ、ありがとう。ごめんなさい。わたし、うっかりしてて」
「いいよ。おまえだって、子育てで大変なんだから」
「ごめんなさい」
「じつはさ、寿司を取ってあるんだ。さっき頼んだから、もうすぐ届くと思うよ。それでお祝いしようよ」
「ごめんなさい……」
わたしは本当の意味で謝っていなかった。結婚記念日を忘れていた失態をどう取り繕うか、ごまかすか、そのための言葉だった。
今日何をしていたかと問われたとき、なんと答えようとか、そういうときの言い訳は日頃から用意していた。でも、この日ばかりは言い訳を用意していながらうまくごまかせそうにないと感じた。
けれど、夫は何も問わなかった。
寿司が届き、夫は珍しくよく食べた。もうずっと夕飯は済ませてくることが多く、わたしの作ったものは口に入れてもすぐに箸を置いていた。
この夜は、上機嫌で、これも滅多にないことなのだが、いつかの頂き物で冷蔵庫に収納されっぱなしだったビールを飲んだ。社会人になった後も、体質的にほとんどアルコールを飲むことはなかったのに。
その夜、夫はわたしを求めてきた。
夫はずっとセックスレスだった。明山に気持ちが行っていたわたし自身、それを好都合と感じていた。夫に抱かせたくないと、時々、明山が心配していたからだ。
しかし、この日は拒めなかった。
交際期間を通じて、きっと初めてだというほど、夫はわたしを強く求めた。幾度も。
わたしはうれしかった。
自分が忘れていた結婚記念日を大切にしてくれたこと。
このところずっとなかったような笑顔を見せてくれたこと。
こんなふうに自分を欲してくれるのなら……とさえ思った。その後ろ側で、同じ日の昼間、明山に抱かされていた罪の意識が胸を締め付けた。
明山とは別れた方がいいのかもしれないと刹那、思った。
翌朝、目が覚めると、ベッドに夫はいなかった。
トイレに起きたのかと思い、リビングに出て行った。「あなた」と呼びかけたが、気配はなく、テーブルには昨夜の桜餅と、その横に一枚の便せんと緑の用紙が並んで置かれていた。
――すべて知っています。
頭が真っ白になった。
わたしはたぶん、かなり長い間、その一枚の便せんの文字を見つめ、その場に凝固していた。そして、隣の離婚届に記入されている夫の署名と捺印を交互に見つめていた。
「すべて知っています」という言葉の意味が、ちゃんと頭に入ってくるまでに、とても長い時間を要したように感じた。
理解することを、たぶん拒否していたのだと思う。
娘。
あるとき、頭の中でつながり、わたしは寝室に駆け戻った。「亜弥! 亜弥!」と叫びながら、ベビーベッド(まだ体が小さいので、そのまま使っていた)を確認した。
寝室の隅々まで確認し、次にはマンションの隅々を確認し、玄関のドアを開け、通路を確認した。
そこからは我が家が契約している駐車場スペースも確認できた。そこにうちの車はなかった。
このとき、わたしはわなわなと震えた。
正常な思考はほとんど蒸発していた。
夫に電話をかけた。出ない。幾度もかけた。出ない。
次にしたのは、震える指で明山にメールを送ったことだった。今の状況の説明、夫が何か言ってきていないかということ。
しかし、早朝だったためか、明山はなかなか返信をよこさなかった。
明山からの返信を待ちきれず、次に夫にメールを送った。
どうしたの。どこにいるの。何を言っているのかわからない。誤解です。話をしたい。娘をどうしたの。お願いです。連絡をください。
そんな内容のものを何十回と送った。
その間に明山からのメール返信があった。
なにもない。どうしたの、いったい。まさかバレたの?
そんな内容だった。明山に電話した。
「ばか。こんな時間に電話かけてくんなよ。気づかれんだろ」
「だって……」
「ちょっと待て」
移動し、洗面所に入ったのか、トイレを流す音。
「マジでバレたのか」
「わからない。でも、すべて知ってるって。離婚届が置いてあって、聡史はもう記入してあるの」
「とにかくしらを切り通せよ」
「でも、もし本当に全部知られていたら」
「僕はうまくやってたんだよ。そっちのことはそっちの責任で処理してよ」
耳を疑った。
「なによ、それ……。なにかあったら守るって言ったじゃない」
「今はちょっといろいろまずいんだよ。嫁さんの実家のこともあって……」
後の言葉は、ほとんど耳に入ってこなかった。言い訳ばかりだったことは、なんとなく印象に残っていた。
何かあっても個別の夫婦間のこと。
配偶者にバレたのなら、それは本人の責任。
だから、何かあったのならそちらで処理しろ。
言葉は柔らかくだったが、言いたいことはそれに尽きていると感じた。
電話を切られ、わたしは誰もいなくなったリビングで膝をついた。
異常に呼吸が荒く、気分が悪かった。自分が真っ青なのがわかる。血圧が異常に下がっているような感じだった。
床に頭を打ち付け、意識を失ってしまった。
しばらくして、手に握りしめたままの携帯電話のバイブレーションで目が覚めた。
意識が回復したとき、「ああ、夢だったんだ! よかったよかった!」と心底喜んだ。しかし、自分が倒れていた場所がリビングの床だったと気づき、これは紛れもなく「続き」なのだと知った。
そのときの真っ暗な絶望感――
今一度、意識が遠のきかけた。しかし、手の中で震える携帯電話のディスプレイにメールの表示があり、夫からのそれだと知り、慌てて開いた。
「本日中に弁護士から内容証明が届きます。以後は弁護士を通してください」
そこから後のことは、もう思い出したくもない出来事の連続だった(思い出したくもないと言っても、絶対に忘れることなどなどできない。むしろ終生忘れることなどできない)。
わたしの実家から、内容証明を受け取った両親がその日のうちにやってきた。そして、力尽くでわたしを実家に連れ戻した。父に殴られた。29年(当時)の人生で、父に手を上げられたことなど、一度もなかった。
父は涙を流して殴っていた。母も横で止めながら泣き叫んでいた。わたしを責めるよりも、わたしへの教育が十分にできなかったことの懺悔をしていたのが、父の手よりも痛かった。
それから数日、わたしは抜け殻のように実家で過ごした。その間、幾度も夫にメールを送った。電話もした。しかし、何の反応もなかった。
明山からはパニックのようなメールが大量に来ていた。彼の自宅にも内容証明が届いていて、奥さんにも知られるところとなっていた。気づかれたわたしのことをなじっていたかと思うと、一転して優しくなったり、口裏合わせしてなんとかごまかす算段を提案してきていた。
両親に問い詰められ、すべてを告白してしまったわたしには無意味だった。
こんな男にのぼせあがっていたんだ……
自分に失望した。これほど深く失望したことはなかった。
三日目のあるとき、わたしは実家を抜け出した。
そして、住んでいたマンションに戻った。
そこに夫も娘もいなかった。
多くの家財がすでに運び出されていた。あるのは、わたしの私物だけだった。
そして――
寝室のダブルベッドが切り裂かれていた。
シーツもマットも掛け布団も。
部屋には羽毛布団の羽根が散乱していた。
わたしは夫の怒りの強さを知った。そして瞬間的に悟った。
恐ろしいことを――。
あの結婚記念日――夫は、わたしが明山とマンションで会ったことも知っていた。このベッドで何が行われていたか知っていたのだ――。
切り刻まれたベッドの残骸はそれを物語っていた。
そう悟ってやっと、愚かにもわたしは「もしかしたら」と考えることができた。
もっと前から夫は知っていたのではないか。
だから、わたしの作ったものなど食べることができなくなり、日常的なストレスから痩せてしまったのではないか。
眠るときもベッドはあまり使わず、リビングのソファで仮眠をすることが多くなっていた。ベッドはいやだったのではないか。
もしかしたら、わたしが拒絶されていると思ったセックスも……わたしの不倫が先で、それを知ってしまったから……
妻が浮気相手を招き入れ、行為をしているとわかっている部屋に毎夜戻ってきて過ごしていた夫の気持ちを想像し、ぞっとした。
怖くて震えた。自分のしでかしたことのあまりの残酷さに。
自分が怖かった。
謝りたかった。ちゃんと夫に謝りたかった。
ごめんなさい、あなた! ごめんなさい! ごめんなさい!
号泣した。そこで、何時間も泣いていた。
弁護士に指定された面談会場で、ようやく夫に再会することができた。
すぐに土下座した。一緒に来た両親も。
決壊したように涙があふれ、みるみる床に水たまりを作った。
わたしは自分が何をしゃべっているのかも、よくわからないほどだった。懺悔の言葉と許しを請う言葉を、えんえんと繰り返し吐いた。叫ぶように。
どうか捨てないでほしい。なんでもする。一生かけて償います。
しかし、夫は「お義父さん、お義母さんが謝る必要はないです。頭を上げてください。ちゃんと話をしましょう」といった。
何日かぶりで聞く夫の声は、驚くほど冷静だった。いや、冷静というよりも、まるで心ここにあらずというような。
夫は落ちくぼんだ目に、なんともいえない影を映していた。痩せていた。ガリガリだ。ぼーっとしているように見えた。その姿は、あの切り刻まれたベッドとはどうしても結びつかなかった。怒り狂って罵倒される覚悟で来たのだ。
弁護士が冷静な言葉で、その後を進行させた。事情聴取され、事実の確認が行われた。嗚咽でうまくしゃべれなかったが、正直に何もかも語った。
「ここ数ヶ月の不貞の証拠があります。こちらでわかっていることとの矛盾はないようですね」
やはりそうだったのだ――
離婚が提示された。共有財産の分与はあり。わたしへ慰謝料請求をしないかわり、親権は夫。
「お願いです。離婚だけは許してください。いやです。亜弥とも離れたくない……」
弁護士は有責配偶者であるわたしが拒絶しても、裁判になれば離婚は確定するといった。
父がそこで再び土下座した。
「聡史君、すまん! 本当に申し訳ない! 私たちの教育が悪かったと思う。慰謝料の請求はしないという話だったが、ちゃんと慰謝料を払わせてくれ。できるかぎりのことをさせてもらう。だから――だから、もう一度だけ、娘にチャンスを与えてくれないか」
「お願いします!」
わたしも土下座した。母も床に手をつき、泣きながら懇願してくれた。
「やめてください。顔を上げてください」
物憂げに夫はいった。弁護士にもいわれ、わたしたちももう一度席に戻った。
「離婚させてください。お願いします」
逆に夫から請われた。
「もう無理です」
うつろな目をしていた。
そして語った。
わたしの浮気に気づいたのは、共通の知人からの目撃情報だったらしい。ホテルから出てきたのがわたしに見えたと(これが、不倫のごく初期の頃だった)。
信じられなかったが、わたしのことを信じたくて、悪いと思いながら少しずつ調べた。自分に対しては着用することもない、わたしの下着に派手なものが増えたことや、外出が増えたこと。いつも携帯のメールばかりしていること。その携帯を以前はリビングに放置していたのに、風呂場や洗面所にまで持って行くこと(携帯はロックしていたので見られていなかったし、わたしは明山とのメールや通話記録はすぐに削除していた)。
出張がちだったため、決定的な証拠をなかなか見つけられなかった。結果、半年もかかってしまった。
3ヶ月前、とうとう夫は出張と偽り、わたしの行動を確認したのだと打ち明けた。知らず、わたしは明山と会っていた。わたしの不貞にもひどいショックを受けたが、相手が大学時代の友人だったことで、さらに深く傷ついた。
その後は弁護士に相談し、興信所にも依頼した。お金はやがて戸建てを購入するときのために二人で貯めていた資金を使った。
出張で家を空けるたび、気が狂いそうになった。
わたしの作るものが汚らわしく思え、いつも吐いていた。
3回程度、はっきりとした不貞の証拠があったほうがいいといわれ、待ち続けた。その間に、自分の中にあった愛情がカラカラに乾いてしまった。家に帰ると、何事もなかったように振る舞うわたしがいて、それを見続けているうち、あるとき、自分の愛した女性はもうこの世にはいないと思った。すると嫉妬とか怒りとかも、もうあまり感じなくなってしまい、だから、あの家に戻っても、なんとか平然と振る舞えた。
――もうこの世にはいない。
その言葉に打ちのめされるとともに、自分がいかに夫を長く、深く傷つけ続けていたか知った。罪悪感と自己嫌悪で胸が押しつぶされそうだった。
娘だけが唯一の救いで癒やしだったと、彼はいった。
「お願いだから、娘を取らないでほしい。こちらに渡してほしい。娘だけが今の自分の生きがいなんだ」
彼の言葉を聞きながら、わたしは泣き続け、必死で言葉を送った。
「わたしも……娘と別れたくない。あなたとも……」
「君は亜弥が風邪で調子が悪かったときも、実家に子供を預けて明山と会っていたよね」
特に責める口調ではなかったが、すごく痛い事実を突きつけられた。本当にどうかしている。なにをやっていたんだろう……
「こないだ、最後に君と過ごしたけれど……。あれが自分の中の最後。あれは愛情なんかじゃなかった。むしろ怒りで抱いた。申し訳なく思う。仮面の笑顔で、あんなことができてしまう自分になってしまった。本当は嫌悪感でいっぱいで、後で吐いた。もう夫婦ではいられない。無理だと思う」
わたしは号泣した。
壊してしまった。この人を。
わたしが好きだったあの笑顔、声。
それは二度と戻らないと思い知らされた。
わたしはすべてを受け入れ、離婚した。
当然のことながら、聡史は明山にも制裁を行った。慰謝料の請求。会社の勤務中の行為もあったため、管理責任が勤め先にも問われ問題になり、退職。やはり離婚。
その後幾度か連絡があったが、わたしは拒絶した。馬鹿な幻想はとっくに覚めていた。
月に一度、亜弥に面会することは許された。
亜弥は聡史の実家で、親御さんのサポートを受けながら育っていた。
今、5歳。
亜弥に面会させてもらえるときの聡史は、いつも穏やかでいてくれた。
過去のことを何も蒸し返すこともない。けれど、時折、すごく苦しそうな表情をすることがあった。
あの病的に痩せた状態からは回復していたが、一番体重があったときよりもかなりスリムだった。
独り身のままだった。
いつかもし許してもらえることがあれば――
どうしてもそれを考えてしまう。復縁など、そんなことを考えること自体、厚かましいと思う。
あの苦しそうな表情は、わたしがそばにいれば、あのときのことを思い出してしまうからだとわかる。
だから、彼のためには会うのもやめた方がいい。
でも、やはり会いたい。彼にも娘にも。
離れられない――わたしは自分勝手だ。
このままの状態でいい。
聡史と亜弥の幸福を願って、少し離れたところで見守っているだけでいい。それが許されるだけで感謝だ。
桜餅を三つも食べてしまった。
その間にまた盛大に泣いた。
こうなって初めてわかる。愚かだけど。
聡史と出会って、ともに過ごして、恋をして、結婚して。
共働きして。
喧嘩して。
子供が生まれ。
百日(ももか)の祝いを両家でして。
ハイハイやタッチでともに喜び。
ああいう思い出のすべてが家族であるということなんだと。
当たり前に朝起きて、「おはよう」といい、帰ると「おかえりなさい」といえる。
あの思い出たちの、そのままの先に行きたかった。
それはもうかなわない。わたしが壊してしまった。
面会は毎月第二日曜。
わたしは壁につるしてある2011年のカレンダーの前に立った。
今日の日付、3月9日に×をつけた。
面会の日は、3月13日――。
4日後だった。
――――「桜餅 後編に続く」
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
☆ この物語はフィクションです。ブログ小説についてをご覧ください。
2018年3月15日木曜日
春の阿智神社にて
昨日、ルミネセンツァに行く前に参拝した神社は、倉敷の阿智神社でした。
もう春そのものというような日差しの中、ちょっとしたデートを楽しみました。
今年二度目の参拝ですが、一回目はまだお正月だったので大変な混雑でした。
でも、この日は参拝客もまばらで、雲一つない青空の下、境内を散策しました。
お正月にうっかり忘れてしまったので、新しい御札をいただくことに。
このときに、昨年までの間にたまっていた古い御札や他の神社の古いお守りなども返納し、新しいものをいただいてきました。
摂社にお稲荷様があるのですが、その横で梅の花が!
癒やされました。
いつもここへ来ると荒神様(素戔嗚尊)にもお参りしていきます。
もうすぐ、「キロンの物語」の第一話の前編をUPできると思います。
自分が出来ることは、占星術だけではなかった。
物語を書くこともまた、出来ることの一つだった。
あらためて、そう感じております。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
もう春そのものというような日差しの中、ちょっとしたデートを楽しみました。
今年二度目の参拝ですが、一回目はまだお正月だったので大変な混雑でした。
でも、この日は参拝客もまばらで、雲一つない青空の下、境内を散策しました。
お正月にうっかり忘れてしまったので、新しい御札をいただくことに。
このときに、昨年までの間にたまっていた古い御札や他の神社の古いお守りなども返納し、新しいものをいただいてきました。
摂社にお稲荷様があるのですが、その横で梅の花が!
癒やされました。
いつもここへ来ると荒神様(素戔嗚尊)にもお参りしていきます。
もうすぐ、「キロンの物語」の第一話の前編をUPできると思います。
自分が出来ることは、占星術だけではなかった。
物語を書くこともまた、出来ることの一つだった。
あらためて、そう感じております。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
2018年3月14日水曜日
ルミネでホワイトデー・ランチ
今日のお昼は、奥さんとデートでした。
倉敷で神社に行った後、用事を一つ済ませ、総社のオステリア・ラ・ルミネセンツァへ。
3月3日の奥さんの誕生日前後で、どうしても今年はうまくスケジュールが調整できず、たまたまホワイトデーになってしまいました。
ルミネセンツァ、この日は満席。
男は私一人。
奥様たちのお話声が全方位から攻めてくる状態でしたが。(笑)
久しぶりに奥さんと二人でセンツァの料理を楽しみました。
タイ、スジガツオ、サワラの炙りの前菜。
美しいわ!
サワラ大好きな奥さんが喜んでおりました。
グリーンのソースはバジル、赤いのはビーツのソースだそうです。
センツァの食材は、どれもピカイチ。
お魚がうまいのはもちろん、付け合わせの野菜が、本来の野菜らしいうまみを持っています。
ラーディッシュがついているのが、個人的に「ラッキー♡」なのです。
後の運転は奥さんに任せ、ワインをグラスでいただきます。
いい感じに炙られたタイ→野菜→ワイン(ぐびっ)
野菜→いい感じに炙られたスジガツオ→ワイン(ぐびっ)
いい感じに炙られたサワラ→野菜→ワイン(ぐびっ)
至福のひととき……が過ぎてゆきます。
バターブレッドとチーズ入りのパン。
バターブレッドの方から少しずついただきました。
こんなん全部ご自分で作るって、ほんと、尊敬します。
イイダコのオイルソースパスタ。
オイルソースにですね、ほのかに春の風味があるのです。
ちょっとした苦みのような。
菜の花です。
それがイイダコとパスタを包み込んでいる。
これをチョイスしてえかった~。
いや、まさに春のパスタですね。
こちらは日南鶏の生トマトソースのパスタ。
奥さんがチョイスしたのですが、もちろんシェア。
この鶏、普通の鶏じゃありません。
火の入れ方にもよるでしょうが、絶妙な柔らかさ。
さわやかな生トマトソースがお口の中に、また違った風を送り込んでくれます。
奥さんのマグロのグリル。
土台はジャガイモのチーズ焼き?
ほっこり甘いジャガだけでもごちそう。
マグロは身がみっちりとしていて、以外に食べ応えがあります。
私は
鹿!
をチョイスしました。
こういうときに、つい普段食べられない食材をチョイスしてしまうのが、火のエレメントなのか、天王星+水星なのか。
以前に京都の山の中、仕事で取材中に鹿肉をいただいたことがありますが、このセンツァのお肉にもやはり独特の野趣が、ほのかにあります。
脂っぽくなく、密度の高い肉の繊維。
淡泊であありながら、しっかりとした旨味。
お肉の上には、やはり鹿肉のソーセージが。
これも違和感がないのですが、脂っぽさがないのです。
キウイのプリン。
チーズのスフレケーキ。
キウイのソースは酸っぱみがあり、下のプリンと合わさって調和します。
スフレケーキもさくっとふわっと。
デザート注文時に、ドリンクをオーダーしたのですが。
二人ともラテを注文してしまいました。
私は
(*。◇。)ハッ!
となり、慌てて「いや、やっぱりコーヒーで」と呼びかけると、
センツァの奥様が、
「(ミルク)ピッチャーお持ちしましょうか? ラテで」
と笑っていました。
見抜かれている……
つまり、これですね。
私たちの間でのニックネーム
ゲロゲロ君。
ラテだとこの人にお目にかかれない!
ブログにUPできない!
コーヒーにしなければ!
と、慌てて訂正したのを見抜かれて、ゲロゲロ君付きでラテをサービスしてくださいました。
というわけで、ホワイトデー・ランチの終了でございます。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
倉敷で神社に行った後、用事を一つ済ませ、総社のオステリア・ラ・ルミネセンツァへ。
3月3日の奥さんの誕生日前後で、どうしても今年はうまくスケジュールが調整できず、たまたまホワイトデーになってしまいました。
ルミネセンツァ、この日は満席。
男は私一人。
奥様たちのお話声が全方位から攻めてくる状態でしたが。(笑)
久しぶりに奥さんと二人でセンツァの料理を楽しみました。
タイ、スジガツオ、サワラの炙りの前菜。
美しいわ!
サワラ大好きな奥さんが喜んでおりました。
グリーンのソースはバジル、赤いのはビーツのソースだそうです。
センツァの食材は、どれもピカイチ。
お魚がうまいのはもちろん、付け合わせの野菜が、本来の野菜らしいうまみを持っています。
ラーディッシュがついているのが、個人的に「ラッキー♡」なのです。
後の運転は奥さんに任せ、ワインをグラスでいただきます。
いい感じに炙られたタイ→野菜→ワイン(ぐびっ)
野菜→いい感じに炙られたスジガツオ→ワイン(ぐびっ)
いい感じに炙られたサワラ→野菜→ワイン(ぐびっ)
至福のひととき……が過ぎてゆきます。
バターブレッドとチーズ入りのパン。
バターブレッドの方から少しずついただきました。
こんなん全部ご自分で作るって、ほんと、尊敬します。
イイダコのオイルソースパスタ。
オイルソースにですね、ほのかに春の風味があるのです。
ちょっとした苦みのような。
菜の花です。
それがイイダコとパスタを包み込んでいる。
これをチョイスしてえかった~。
いや、まさに春のパスタですね。
こちらは日南鶏の生トマトソースのパスタ。
奥さんがチョイスしたのですが、もちろんシェア。
この鶏、普通の鶏じゃありません。
火の入れ方にもよるでしょうが、絶妙な柔らかさ。
さわやかな生トマトソースがお口の中に、また違った風を送り込んでくれます。
奥さんのマグロのグリル。
土台はジャガイモのチーズ焼き?
ほっこり甘いジャガだけでもごちそう。
マグロは身がみっちりとしていて、以外に食べ応えがあります。
私は
鹿!
をチョイスしました。
こういうときに、つい普段食べられない食材をチョイスしてしまうのが、火のエレメントなのか、天王星+水星なのか。
以前に京都の山の中、仕事で取材中に鹿肉をいただいたことがありますが、このセンツァのお肉にもやはり独特の野趣が、ほのかにあります。
脂っぽくなく、密度の高い肉の繊維。
淡泊であありながら、しっかりとした旨味。
お肉の上には、やはり鹿肉のソーセージが。
これも違和感がないのですが、脂っぽさがないのです。
キウイのプリン。
チーズのスフレケーキ。
キウイのソースは酸っぱみがあり、下のプリンと合わさって調和します。
スフレケーキもさくっとふわっと。
デザート注文時に、ドリンクをオーダーしたのですが。
二人ともラテを注文してしまいました。
私は
(*。◇。)ハッ!
となり、慌てて「いや、やっぱりコーヒーで」と呼びかけると、
センツァの奥様が、
「(ミルク)ピッチャーお持ちしましょうか? ラテで」
と笑っていました。
見抜かれている……
つまり、これですね。
私たちの間でのニックネーム
ゲロゲロ君。
ラテだとこの人にお目にかかれない!
ブログにUPできない!
コーヒーにしなければ!
と、慌てて訂正したのを見抜かれて、ゲロゲロ君付きでラテをサービスしてくださいました。
というわけで、ホワイトデー・ランチの終了でございます。
ルミネセンツァのご主人、奥様、ごちそうさまでした。
うっ……
おなか、苦しい。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
↓
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