神仏に祈っても叶わないことはたくさんあります。
皆さんもあったのではないでしょうか?
そうしたとき、「これだけ強く、真剣に祈っても叶わないなんて、神も仏もこの世にはいないんだ!」と思う人も珍しくありません。
でも、神仏はおわします。
霊的な観るとか聴くとか、そのような能力には私にはありませんが、そうとしか思えない不可思議な体験はいくつもあります。
じゃ、神仏が存在するのに、なぜ自分の願いを聞き届けて実現してくださらないのか?
神仏が高次の存在だとすると、私たちよりもはるかにものが見えていますし、わかっています。
参拝に来た人の何もかも見通していて不思議ではありません。
その人が「大金持ちにしてください」と祈願する。
その人が「好きなあの人と結婚させてください」と祈願する。
いろいろですが、それはたいがい、個人の欲望、エゴから発した願望であることが多い。
「いやいや、大金持ちになれるだけの努力もしていないし、金持ちになってあなたは何をしようとしているの?」
「あなたの好きな人とは根本的に縁がないし、仮に結婚しても不幸せになるだけですよ」
とか、神仏は見通しているのが普通です。
え? 何でそう言えるかって?
だって、じゃ。
あなたの子どもが、「好きなゲームを全部買ってほしい」とねだってきたら、全部買ってやりますか?
あなたの子どもが、「ホストの推しがいる。彼にすべてを捧げたい。彼が結婚しようと言ってくれてる」と言ったからといって、「よしよし応援してやろう」となりますか?
大人の目から見て、明らかにダメな選択欲求もあれば、普通に考えて無理とか、なんかおかしな方にいっているとわかる選択欲求もあるじゃないですか。
神仏というのは、私たちより、はるかにはるかにはるかに、大人な存在です。
私たちからすれば、まっとうで良い願いだと思って祈っていても、神仏視点では「いやいや、それは」ということは、すごくたくさんあると思いませんか?
すごく率直なことを書かせていただきますし、不快に思う方もいらっしゃるかもしれないのですが、
寺社に毎日毎日参拝し、熱烈に叶えたい願いを祈り続けたところで、しょせん叶わない願いはあるのです。
むしろエゴから発している個人的な願いであればあるほど、叶いにくい。
願えば願うほど、祈れば祈るほど、逆にそれが与えられない、という悪循環にも陥りかねません。
この頃、神社で天津祝詞を上げるたびに思うことがあります。
あの祝詞は、罪や汚れを祓い清めてください、と神様に申し上げているだけです。
文言がそのまんまです。
つまり、自分に罪や汚れがあれば祓い清めてください。
世の中に罪汚れがあれば、それを祓い清めてください。
と、お願いしているのが、天津祝詞なのです。
これで十分なのでは?
個人的な願いなど、本当にその人が必要としているものであれば、神仏は理解してくださっている。
願わなくてもわかってくださっている(はず)……と私は思っているのです。
むしろ、その執着から離れ、自分と世の中を祓い清めてくださいと真剣に思えるような人間なら、「おおそうか、そこまで来たか」と助けてくださることも多いのでは?
ここ打算でやっちゃいけないところ! なんですけど。(笑)
とにかく、言葉として、言霊として、天津祝詞を上げ続けるというのは、〝形〟として良い入り方かもしれません。
そのときには、個人の願い事などしなくていい。
と、今の私は思っています。
次回は、今の私の〝祈り〟について書かせていただきます。