今日の午後、旧宅へタケノコ掘りに行きました。
落ち葉や枯れ木で荒れた山林なので、地表に出てきたばかりのタケノコは見つけにくいのですが。
こういうのは、母が得意なんですよね。
今日の午前中に旧宅に戻っていた母から電話がかかってきて、
「生えとる。たくさんある。午後から堀りに行くじゃろ?」
という、半ば強要のような……(^_^;)
一度帰宅した母と、奥さんと一緒に旧宅へ。
去年なんか、自宅周辺のタケノコは大半、猪にやられてしまっていた。
奴らはやはり「鼻」がいい。
地表に出るか出ないかくらいで嗅ぎつけ、掘り返して食っちゃう!
ところが、今年はどうしたのか。
意外にたくさん収穫できました。
……
など、いちいち感想をのたまうのが、びみょーに
ピキッ……
となるのですが、まあ、昔に比べたらましか。
生前の父相手には、もっと言いたい放題。
ダメ出し、決めつけ、の嵐でした。
でもまあ、猪には負けるにしても、母の〝目〟でたくさんのタケノコが収穫できたので、良しとしよう。
今年も山の幸を頂戴できます。
カンシャ!
これを、これからイタダキマス!
↓
蕗とタケノコとイカの煮物。
☆――☆――☆――☆――☆
命は、まことに不思議です。
不思議というのは、科学合理主義では解けないつながりが、ホロスコープ上にはちゃんとある、確認できる、という不思議です。
そのような不思議を、本当に痛烈に感じさせてくれる事例に遭遇し。
ちょっとだけ、メモ。
どのような鑑定でも、不思議は存在します。
たとえば自分のホロスコープには、配偶者の情報が存在していて、伴侶はまさにそういう情報を満たしているとか。
家庭に存在するはずの情報と親御さんとのシンクロとか。
ある人との出会いの時期とか。
出来事が生じた時期に、その出来事を家族で共有する情報があるとか。
なんだかんだ、いっぱい、無数に。
そして……
生きること死ぬことですら。
〝死〟の意味を問われる鑑定は、とてもヘヴィーなものです。
とくに、高齢の祖父母や両親が亡くなることと、逆のパターンとでは、その認識、受け止め、心の痛みなどが、まったく異なります。
愛する者との今生での別れは、誰にとってもとても厳しく悲しいものなのですが。
特別な意味を持つ場合はある。
このような鑑定は、過去にすごくたくさんではないですが、やはり印象に残るものがあります。
私は霊視も透視も、死者とお話もできないスピ鈍なので。
そことリアルにつながることはできません。
でも、ホロスコープ上には言い知れぬ因縁? 脈絡? 関係性?などが克明に浮き彫りになることがあります。
そこから読み取れることはあります。
そして、言えるのは、
この世を去るとき
自分の死を持って
この世に残る者たちに
何かを残す
という行いはある、ということです。
人生が一回こっきりで、転生などない、という観念の場合、これは受け入れがたい情報です。
ですが、魂はすごく多くのチャンス(幾多の転生)を持っていて、どのような体験も可能なのだという観点では、「人のために自分の死の意味を残す」という人生もあるはずで。
(これは否定的な方がいて当然で、私の意見を押しつけるつもりはありません)
極端な話。
イエスは万人のため自らの死を選んだと言われています。
それが真実とすれば、「究極の自己犠牲」です。
もっと小さいエリア、魂のコミュニティの中で、同様な行為をする魂がないと言えるのか? というと、イエスを基準にして考えたら、
あるのでは?
と思えます。
わかりやすくイエスの例を出しましたが。
宗教に無関係に、そのような足跡を残す魂は存在する。
そして、それは本人のホロスコープと、関係者のホロスコープに表示されている。
その足跡を追えば追うほど。
命は不思議であり、魂は皆つながっているのだと。
実感する次第です。
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