東京鑑定は、全スケジュールを終えました。
お陰様で満席。
限られた時間の中で、すべての皆様のご要望に100%お応えできたとは言えないと思うのですが、能力の限りは尽しました。
基本的には、クライアントの方のご要望に沿った鑑定は行うのですが、それ以上に、もう少し本質的にお伝えできたらよかったと思った部分も残っている場合や、あとわずかな時間、お伝えできたらと思うケースもありました。
ま、これは以前からあったものではあります。5分、あるいは10分伸びたとしても、かならず出てくる問題なのです。
だからこそ、今よりもさらにもっと。
能力を高めたい。
これは、新宿に宿泊している間、毎朝、参拝していた稲荷鬼王神社にあった格言の一枚です。
いくつもあるのですが、その時の私に一番響きました。
祈りとは「意乗り」であると言われます。
つまり意識が乗るのです。
なにに?
神仏の意にかなうところにです。
神社に来て、多くの人が「祈り」ます。
が。
エゴによる望みを祈っても、叶わないことがある。
神の意に乗ること。
それこそが祈りなのですが、それは今の自分の人生を真剣に生きることが一番。
いい加減に生きていたのでは、なかなか神の意には添えない。
私自身、決して100%はない。
それに。
神の意に沿うために、限りなく100%に近い努力をするというのも、これもまた違っていると感じます。
神の意は、それは喜びです。
神様のご意志を慮って、冷や汗をかきながら生きる
自分が「これぞ神の喜ぶこと」と思い込んで、青筋を立てて何かにこだわる
というようなことは、すでに「意乗り」ではないと思われます。
それは自然な流れにある。
誰かを憎んだり、あるいは自分を否定したり。
そのような流れに中にあるときは、すでに「祈り」はできていない。
どんなパワー・スポットに行ったとしても、そこで願ったとしても、かなわない。
同調していないからです。
祈りというのを、多くの人が誤解している。
祈りは、自分の願いを(神仏など高次の存在に)伝えることと思いがちです。
実際、日常的な感覚では、祈ることと願いを伝えることとは、限りなく近いはず。
神社や仏閣に行き、祈る――それは何かを願うことと、今はほとんどイコールになっている。
でも、本当はそうではないのです。
祈ることは、真剣に生きること。
自分の願いはあっていい。
しかし、本当にこの人生を真剣に生きようとすればするほど、自然とそれは神の意に沿っていくようになる。
エゴによる願望は、時にかなわぬこともあります。
それでも真剣に生きるのです。
頭を打ってもいい。
挫折してもいい。
嫌われてもいい。
が。
かならず、その先があります。
真剣に生きようとするのなら。
それこそが「祈り」です。
真剣に生きることは、そのまま神仏=高次の存在への祈りとなります。
もし、あなたがそのように生き、その段階での「祈り」を捧げるなら、それはきっと、とんでもない大きな力を持つでしょう。
祈りが通じるからです。
神や仏に。
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