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作家として
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家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2018年4月10日火曜日

現世の後悔と死後の後悔

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本当は昨日書こうと思っていた記事です。

たまたま今月号の「ムー」に輪廻転生や「中間世」に関する特集があり、記事に関連していたので思わず買って読みました。
この種のことも、かつて自分が書物から情報として知った以外のことが、いろいろとわかってきているんだなあと感心しました。

先日の高畑勲さんの逝去にの記事の中で、人の魂は死後、今回の人生のいろいろなことを後悔するということを書いたのですが、その情報も過去、この種の研究をまとめて紹介してくださっている書物にあった情報でした。

コメントにもちょっと書いたのですが、私は今回の人生を
大筋においては後悔していません。

大筋においては。
たとえば作家になろうとしたこと。
今の私は商業作家としてはさっぱりなので、プロとして瞬間的に活躍した過去があるとしても、この作家という仕事は商業的な観点では「失敗した」と言われるようなものです。
その結果からすれば、作家になろうとしたこと自体、どうなん?
みたいな視点で批評される方もいらっしゃるかもしれません。

では、作家になろうとして、現実になったことについて後悔するのかというと、そんなこともありません。
作家として頓挫した成り行きについても、どちらかというと「仕方なかった」ような展開で突然、転落がやってきました。

もう少し対処の仕方があったのかもしれませんが、そこにも重大な後悔はありません。
なんというのか、作家になれたことも導きであったし、作家として頓挫したことも不可避の出来事であったように受け止めているのです。
だから、過去のそうした出来事には、ほとんど後悔はないのです。

たぶん死んだとしても、そんなことでは悔やまない。
それどころか、プロセスとしては必然だったし必要だったと、はっきり自分の中では納得しちゃってるのです。

作家としては、このブログなどで公開できるだけで十分と考えています。
いくつか書きためたら製本もしたいけれど、もうそこまででOK。

お芝居の台本なんかも書けますし。


ただ、やはり人間関係では「悔い」があります。
重大なトラウマになるような出来事も過去にはあり、それもなにか「どうしようもない流れ」の中で起きてしまったのですが、そこにはもっと思慮深いやり方や対応がなかったのかと、今でも思います。

家族関係でも、父親に関することはちょっと悔いがあります。
末期的な肝硬変で体力がなくなっていった父。
ホテルへ勤務する前に病院に顔を出したのですが、寝ていたので起こすこともなく仕事へ。
その翌日か翌々日か、ちょっとよく覚えていないのですが、深夜に病院から連絡があり、駆けつけるとすでに息を引き取っていました。

父との関係ではいろいろとあったので(私だけでなく家族全体の問題でした)、正直、あの頃は病院に入ってくれて安心…みたいな冷たい考えもありました(私は複眼思考する人間なので、常に冷めた自分とそうでない自分がいます)。
結果的に父と最後に話す機会もなくしてしまった。

他界する直前に、もう少し接触してやればよかったというのは思います。

人間関係では痛恨の経験というのが複数あります。
それらはかならず自分の死後、悔やむ部分にはなるだろうと思ってます。

以前、読んだ書物の中には、たとえば戦争などで相手の兵を撃ち殺した場合であっても、死後、人を殺したことには深い後悔を抱く…というような情報がありました。
戦争なので、これも仕方ない状況なのですが(でないと自分が死ぬ)、それでも魂はそんなふうに感じるらしい。

そういう観点に立てば、私がやむを得なかったとか致し方ない状況だったと考えていることとは別に、魂が魂だけになったときの意識での感じ方というのか、ありようそのものが違うんだろうなと思います。

たぶんですが、今このときを生きているときの現世の後悔と、死後の後悔というのはまったく質が違うのではないかと思います。
現世の後悔というのは、あのときああすればよかったとかこうすればよかったとか、もっと具体的なものですよね。

しかし、死後の後悔はまったく見ている視点というのか、後悔するポイント自体も違っているのかもしれません。
これについて、明日、もう一度記事をUPしとこうと思います。

実は明日、急遽、出雲へ行くことになりました。
たまたま奥さんが休みで、スケジュールも空いているということで。

では。


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