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作家として
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2017年8月2日水曜日

生まれるのは出会うため ホロ向き合い7


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人間関係ほど、前世から引き継ぐものもないかもしれません。

私の判明している四つの過去生は、いずれもかなり違ったことを人生でやってきています。人の妻(母)、歴史学者、武将、執筆家……まったく違った立場を選択しています。そして、今回は小説家でもあり占星術研究家。

仕事…というのか、世の中での果たすべき役割というのは、本当に多様ですね。
江戸時代の執筆家と今回の人生は、やはりかなり強くつながっているような気もしますが……しかし、今生では占星術という新しい要素が加わっている。

何をして生きていくか、という部分では、非常に選択肢が多いように思います。
実際、職業も多いですしね。現代になればなるほど。

その一方で、人間関係というのはかなり過去生のつながりを引き継いできていて、カルマ的な関係も多いように感じます。

出会い、別れる男女。
愛してやまない人。
ずっと友でいる関係。
腐れ縁のように切れない存在。
憎み合う関係。
被害を受ける相手。
自分が傷つける人。
添い遂げる伴侶。
親子、兄弟。
わけもなく分かり合える存在。

私たちの周囲には、千差万別の人間関係が存在します。
自分を軸に、それぞれの人がそれぞれの関係性を作っています。


ホロスコープには、「私」を中心として様々な人間関係が表示されています。
たとえば3ハウスには兄弟姉妹が。
4ハウスには家族関係が。
5ハウスには恋人や子供が。
7ハウスには配偶者やすごく重要な対人関係、パートナーが。
11ハウスには友人や理想を共有する人が。
6ハウスや10ハウスに職場や仕事を通じた人間関係が出ていることもままあります。

実際にはどのハウスも擬人化して人間関係に置き換えることは可能ですが、上記のはわかりやすい、主だったものです。

ホロスコープは「私」が生まれた瞬間のものです。
「私」個人のもののはずなのに、そこには「私」が結婚するはずの相手や、授かるかもしれない子供や、それ以前の親兄弟、どこかで出会う友人などもすでに配置されている、というのは、本当に摩訶不思議な心地がします。

それらは、かならず「そういう人物」として登場はしません。
たとえば5ハウスに火星があるとします。5ハウスは恋人や子供運の部屋でもあります。
では、火星が表示するスポーツマンの恋人や子供が自分の人生に出てくるかというと、たとえば結婚しないという選択をしている人の多くは、子供も得ないということも魂の計画には入っていると考えられます(現代日本での一般的な感覚での解説です)。

そのような場合、少なくともその人の人生に5ハウス火星は子供としては出現しにくいことになります。
恋人ととしてならあり得ますが、そもそも結婚もしない、そして異性もあまり望まない、ということであれば、恋人としてすら出てきにくい可能性もあります。

その場合は、5ハウスは趣味・娯楽の部屋でもありますから、スポーツをたしなむ人生とか、車が大好きで休日にはドライブとか、野外的で活動的な楽しみが好きだとか、そんな出方になってしまうこともありますし、そんな同じ趣味を持つ人との接点になりえるのです。
※ このようなことは5ハウスだけのコンディションでは決まりません。同じ条件でも違った出方をすることはあります。

ただ。
一般的な感覚でいえば、5ハウス火星は元気のいい子供やスポーツ(など火星的なもの)が好きな子供として表現されることが、かなりの確率で傾向として出ています。

私は5ハウス土星なのですが、生まれた子供二人は、どちらもそろいもそろって、土星メチャ強! というようなチャートです。ちなみに私の土星は水瓶座なのですが、二人とも水瓶座の生まれです。
私のケースはすごくわかりやすいケースなのですが、こういうのがちゃんとホロスコープが読める立場からしますと、「こんな偶然あるわけない」と思えるほど、露骨でリアルです。
土星だね、水瓶座だね、という子供運で、そろいもそろって同じ条件を満たす子供二人。

二人そろってこれを満たすというのは、かなり希少な確率のはずです。
※ 子供運もそれぞれなので、ここまで露骨な出方をしない例もあります。私の場合、土星がすごく強かったので、二人の子に共通する特色となったと思われます。


このように「私」のチャートには、周囲の人間関係についても様々な箇所に情報がちりばめられているのです。
そしてこの人間関係ほど、カルマの中で形成されるものはないのです。



なぜか?

考えてもらったら、当たり前ですよね。



この世に私たちは何のために生まれてくるのでしょう。

ケテルとマルクトをつなぐためとか、天の王冠をこの世で実現するためとか、そんな話は脇に置いておきましょう。
そんな机上の論理ではなく、人間的な感覚でのお話として。


この世に生まれるのは、誰かと出会うため、のはずです。



なぜなら、この世は魂の実習場です。
この世は物質的で、みな、霊界とか天界とか、そんな世界から生まれてくるとしても、そんな自覚もないままに生きています。
記憶もない。

この世に生きるということは、完全に「孤独」であり「個」になるということなのです。
あっちの世界で完全に共有されていた霊的な意識や一体感はみじんもなくなり、目に見えるものや触れるものが主体となった世界を生きざるを得ません。

たとえば、この世に生まれるというのは、自動車の運転免許で路上教習になるようなものです。
実際の道路に出てみないと、現実交通状況はわかりません。そこには無法ドライヴァーもいれば、順法ドライヴァーもいる。でも、多くは無法と順法の間で、常識的な運転をしているドライヴァーです。
そういった現実の路上に出てみて、免許を正式に受ける前のドライヴァーたちは、「現実を知る」のです。この路上教習がなく、教習所内でOKで、免許をもらえるのなら、これは結構厳しいことにもなるでしょうし、事故も増えそうです。


しかし、私たちは路上に出なければなりません。

この世での現実を知り、体験するために。
そして、この現実の路上でどんなドライヴァーになっていくか、自ら決めるため。
見極めるため。


それには、ほかのドライヴァーとの遭遇がなければなりません。

すごく極端な話をすれば。
私たちが自分本位なドライヴァーになって、事故や不快をまき散らすようになるのか。
歩行者やほかのドライヴァーのことを配慮できるドライヴァーとなるのか。

そんな見極めを行うようなものです。


この世でどんな自分でいるのか。
それには、ここではひとまず、善も悪もなければ、良い悪いもないとしておきます。

どんな自分になるのか。


それこそ、私たちに与えられた自由です。
自由意志の選択によるものです。

それを知るためにも、自分以外の存在は絶対に必要です。

だって、もしほかにドライヴァーが存在しないのであれば、自分の思うまま暴走してもよいし、300㎞/h出してもよいし、死のうが生きようが勝手だからです。
交通法規(それ以外のあらゆる憲法や法律)は、その個人個人のバランスを取り、最低限守られるべきものを基準に定められているはずのものです。


この世は、そういった現実を知るために用意されているもので、それには絶対的に、
他人が必要
なのです。

自分でない誰か。


だからこそ!

この世は、誰かに出会う場所なのです。



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