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「吉備の児島でございますか」
青空の下、多島海の美しい景色がどこまでも広がっていた。漕ぎ手たちの力強い櫂によって、船はぐいぐいと進んでいく。潮の流れの良さも手伝って、船のスピードは速かった。
潮風を浴びながら、オウスは腹心といってよい従者の弟彦と話していた。
「それならば、妙案があります」
「というと?」
「海人(あま)たちの話によりますと、近頃、吉備の穴戸(あなと)に賊が出没するようです」
「吉備の穴戸?」
「はい。児島と阿曽の間に豊かな浅海がございます。吉備の中心・阿曽に入るためには、とても重要な穴海なのですが、ここを荒らす者がおるようです。この賊どもを討伐するという名目であれば、私たちだけが吉備に立ち寄ることもかないましょう」
「吉備は大和とも良い関係を築いておるな」
少年は考えながら言った。
「はい。最友好国です。それを助けるためとあらば、大王もお許しになるでしょう。それに児島近海が荒れれば、このように瀬戸内を航行することもおぼつかなくなります」
「今宵は安芸であったな」
「はい」
「安芸に着いたら、そのように大王に進言してみよう」
弟彦は髭面でにっと笑った。
「それがよろしいかと」
「なにを嬉しそうにしている」
「これでオウス様は、さらに名をお上げになる。ヤマトタケルとしての御名を。私はそれが嬉しいのでございます」
「ヤマトタケル――か。過ぎた名だ」
「そのようなことはございません。私は皇子様の器量にほれ込んでおります。いずれ大和はおろか、このワの国全土にその御名が轟きましょう」
「大和一の弓の名手である弟彦にそこまで言われれば悪い気はしないな」
オウスはまんざらでもなく薄く笑った。
「ただ少々、心配があります」
弟彦は顔色を曇らせて言った。
「心配?」
「皇子様はお優しすぎる」
弟彦は声を落とし、オウスに少し近づいた。
「なぜ、あのような下賤な女に肩入れをなさるのですか?」
オウスは首を回し、肩越しにイチフカヤを振り返った。わざと顔を汚し、兵の姿をさせている。オウスの警護役というような名目で身近に置いているのだ。一見しただけでは、女とはわからなかった。
「哀れであろう」
「大王の命に背いて、あの者を生かしたことが知れますと厄介なことになります。吉備に着いたら、あの者は遠ざけてくださいまし」
「わかっておる。何度も言うな」
「これは失礼いたしました」
弟彦は身を低くして下がった。
体の交わりを持ったためか、オウスはイチフカヤに対してはすでに冷淡ではいられなくなっていた。察している弟彦が懸念するところもそれであったろう。
少年にとっては、彼女は初めての女だった。あれ以来、幾度かまぐわっていた。それこそ溺れるようにだ。
だが、そのたびに胸が締め付けられるような、苦く重い感情がわだかまるのだった。それは定かならぬ感情の膨張であり、あまりの苦しさに叫びたくなるようなものであった。相手のイチフカヤも同じようだった。
オウスにしてみれば、自分が殺した男の娘。
イチフカヤにしてみれば、自らが背き裏切った父を殺した男。
彼らの交わりは、愛情などではなかった。ただこのむごたらしい関係から目を背けるためのものでしかなかった。彼女にしてみれば、恐怖を忘れたいからというのもあったろう。
救いを求められ、オウスはそれを与えた。男として。
それだけのことなのだが、すでにイチフカヤは他人ではなくなっていた。
だが、同時にいつまでもそばにおいておけるような存在ではないということも、オウスは痛いほど感じていた。
安芸に到着後、オウスはオシロワケ大王に進言を行った。近習の者と共にする食事の席だった。
「吉備の穴戸にそのような賊が……」
オシロワケ王は初耳のようだった。
「大王(おおきみ)」
声を発したのは、末席に座す武内宿禰(たけのうちすくね)だった。まだ若く、オウスよりも一つ歳年上なだけだが、今回の筑紫討伐においても功績は大きかった。川上梟帥の砦に商人に扮した兵を送り込み、内部から切り崩す策を考案したのは、ほかならぬ彼であった。
「その話、私も聞き及んでおります」
「まことか、宿禰」
「じつは大和への帰路、懸念しておりました。よもや、大王のこの船団に戦いを吹っ掛けるような馬鹿な真似はすまいと思っておりましたが、穴戸の賊はこのあたりの潮の流れを熟知した海賊です。油断はできません。まして児島はこの東西の海路の要衝。もし児島がまつろわぬ者の手に落ちれば厄介なことになります」
「うむ」
オシロワケは盃の酒を飲み干すと即断した。
「よかろう。オウス、おまえに吉備の穴戸の賊の討伐を命じる」
「はい」
オウスが身を低くしたそのとき、オシロワケの隣にいたオオウスが口を開いた。
「大王――」
「なんだ、オオウス」
「ただ殺すことを繰り返せば、まつろわぬ者の反感は増えるばかり。でき得れば、言向け和す(ことむけやわす)ようお願い申し上げます」
一瞬、その場は凍り付いたような静けさに包まれた。
「たわけがっ!!」
建屋を揺るがすほどの怒号が発せられた。オシロワケは立ち上がり、顔面を真っ赤にしていた。眼は顔の外に飛び出しそうなほど見開かれている。
「言向け和すだと! 話し合いなど通用する相手だと思うてか!! おまえはその眼で筑紫で何を見てきおった!」
「大王、このままでは国は一つにはなりませぬ」
「なろうさ! この……この儂がっ!!」
オシロワケはわが胸を叩いて豪語した。
「儂が残らず平らげ、一つにするのだ!! このワの王たる、大和の大王たる儂が!」
「力では一つになりませぬ!」
「まだ言うか! この腑抜けが!!」
箍が外れたように、猛然とオシロワケはオオウスを足蹴にした。その苛烈さは、その場にいた者すべてを震え上がらせた。自らの後継者と指名する息子を、情け容赦なく蹴りつけ、罵声を浴びせ続けるのだ。
オウスはただそれを見守るしかできなかった。体が呪縛されたように動かないのだ。
幼き頃より刷り込まれてきた、絶対的支配者である父。
その逆鱗に触れて発せられた怒りは、少年から普段の勇猛さを残らず吸い上げ、枯渇させた。
「なんのために若造の貴様らを筑紫に連れて行ったと思うかっ!! このワの国を統治することの厳しさを教えるためぞ!」
「大王!」
家臣の一人、夏花がたまりかねたように進み出た。
「お、おやめください! ど、どうかっ!!」
すでにオオウスは、口を切り、鼻血も流していた。腹も蹴り上げられたのだろう。苦しげに呻き、吐いた。
「ええい、どこぞ、連れて行け!」
オシロワケは荒々しい波動をそこら中に振りまきながら、その場を離れかけた。そして、思い出したようにオウスを振り返った。
「よいかっ! 吉備の穴戸の賊、一人残らず皆殺しにせよ! おまえなら造作もなかろう」
返事が出なかった。口腔がカラカラに乾き、言葉が詰まった。
オウスは全身に冷感と萎えを感じながら、ただ頭を下げた。