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作家として
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2016年4月12日火曜日

自然に叶っていく願いとそうでない願い

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このところ地元の氏神様の神社まで散歩に行くのですが、ふと先日思い出したことがありました。

あれは2002年~3年ごろのことだったと思います。

その前年あたりから、私は小説家として再起するために、ぎりぎりの努力を続けていました。

毎日、睡眠時間は4時間半。

深夜の2時ごろまで執筆を行い、6時半には起床し、午前中のアルバイトに。
それが終わると帰宅し、またわずかな時間、執筆し、夕方からのホテル勤務へ。

仕事が終わって帰宅するのは深夜。
そこからまた執筆。

その繰り返しで、渾身の大作を書き上げたのです。

それを東京の知人を介して出版社に送り、何とか出版にこぎつけるように願っていました。

そこで2002年あたりから、その結論が出るまでの数カ月…たしかすごく時間がかかり、半年以上、一年近く待たされた記憶がありますが…

その間、毎日、この地元の氏神様に祈願に行っていたのです。

仕事に行く前とか、休みの日でも、雨の日でもかならず。
(仕事を複数掛け持ちしていたので、実質完全に休みの日はなかった)


あれほど神仏に一念を込めて祈り続けたことはありませんでした。


が。

願いは聞き届けられることはなく、霧消しました。


このチャレンジは二度にわたって行われました。

また同じことの繰り返しです。

私はその作品をさらに力を入れて改稿したのですが、結果は同じでした。


この時の極限に挑むような努力の3年ほど。

二度目の頓挫の後、私には一種の燃え尽き現象が起きていました。
その当時はそんなことを考える余裕もなかったのですが、今思えば、あれは燃え尽き現象でした。

やれるだけやった。
評価も得ていた。

神にも祈った。

が。

それでも叶わないことがあるのだと。


真っ白になった明日のジョーみたいな。

その先にはもう何も見えないというところまで行きました。



その後、2005年に占星術研究家として蓄積したものを生きるために役立てようとしたのも、結局、この時に作家としては真っ白になってしまったからだと思えます。

その選択は間違いではなかったし、そうせざるを得なかったのも事実です。

私も生きていかなければならないし、家族を養っていかなければならないという、ごく当たり前の現実があったからです。



この頃、氏神様のところまでよく足を運ぶようになって、あの当時のことを思い出しました。

そして、思いました。

あれは作家としての自分の、エゴからなる願いだったな、と。

それはすごく切実なもので、だからこそ真剣に願い続けました。

しかし、エゴから発した願いは、届かないこともある。

そのエゴの願いと、進むべき道がたまたま一致していれば、叶うこともあるでしょう。

でも、あの時の私には、あの成就は必要なかったのだということが、今はわかります。


あれ以来、私は滅多に神仏に祈願することはなくなりました。
例外はありますが。

願うまでもなく、神仏を想う気持ちがあれば、たぶんわかってくださっている。
わかってくださった上で、もっと大局的な見地で、ご助力をくださっている。

エゴではない、自然なる願いであれば、それはもともと通じているし、自然に叶っていく。


春の神社の境内で、そんなことを思うゼファーでした。