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作家として
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家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2018年9月19日水曜日

秋の夜長に思う

「義母と娘のブルース」が終わってしまった。
そして、もう一つ、このところ熱心に観ていた「この世界の片隅に」も終わった。
ちょっと寂しい……

などという感想を抱けることが、あらためてありがたい。

先日、夜、家族のいるリビングで過ごしていると、夜がすごく長く感じた。
その日は晩酌もしていなかったこともあり、なおかつ夜に仕事もしていなかった(私は夕飯後も仕事や研究をやっていることが結構多い)。
お酒を飲むと、やはり意識は無自覚的になります。
仕事をしていると、そっちへ意識が向いてしまい、いつの間にか時間が経過してしまいます。

この頃、時が過ぎるのが異様に早く感じていたのですが、実際、気づくともう秋。
今年もあと3ヶ月ちょっとしかないわけです。

年を取ると、一年が過ぎるのも早いと、多くの人がおっしゃいますが、それを痛感していたところ、珍しく秋の夜長的なものを感じてしまったのです。

時間と意識の間には、面白い相関関係のようなものがあるように思います。
相対性理論みたいな?
本当は量子理論なのかもしれませんが、科学的な詳しい判定はできません。

この世界が意識で成り立っているなら、時間も空間も意識のありようで伸び縮みするというのか、そんな印象を持っています(世界が意識で成り立つという説は量子理論)。
より意識的、自覚的であった方が、時間はたっぷりとあるように思います。
無自覚的に過ごせば、湯水のように垂れ流され、いつの間にかなくなっている……

ただ無自覚にスマホのゲームに没頭していれば、いつの間にか時間は流れてしまっている。当たり前ですね。
しかし、家族と過ごす時間を意識してリビングで過ごせば、秋の夜長となる。
(秋に限りませんが)

ゲームが良くないとかそういう話ではなく、わかりやすいたとえです(私もスマホにいくつかのゲームは入っています)。
ゲームが何よりも大切なら、それを選択する人生もありなので。

ただ個人的には、やはりゲームで失われる時間というのは浪費感が強い。
かといって、息抜きもなしに仕事ばかりに時間を使うのも、どうなん?という気がします。

しかし、リビングで感じた秋の夜長は、無駄になった感はありませんでした。
仕事もしていないので、商業的な観点では何も生産していないのですが。

家族と過ごしたということもあるし、仕事をしていなかったということもあるし、酔ってもいなかったということもあると思うのですが、たぶんその時間を意識的に過ごしたからだと思うのです。

そこにいる自分。
夕食。
だんだんと帰ってくる家族たち。
ティータイム。(という言葉の響きほど、上品な世界ではない)(笑)
テレビ放映されているドラマ。

時間の使い方に無駄がないか、ということではなく。
どのような状況でも意識的に過ごしたから、そこにたっぷりとした時間があり、その時間を過ごせていたという実感があった。

そんなふうに感じました。

こんなことを感じることは、6年以上前にはあり得なかった。
なにせ、夜も働きに出ていましたから(ホテルに)。

ドラマが観られるようになっているということではなく、今の時間の過ごし方ができるようになったことに感謝。

もう少し、もうちょっと、意識的に過ごしたいと思います。
そうしたら、あとの人生の時間を、もっとたっぷり味わえそうに思います。


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