昨日の鹽竈神社に関連して、以前鑑定を行った方から、ブログ記事を読んでのご連絡がありました。
なんでも、祖先がこの鹽竈神社に参拝したことがあるというお話で、どうもその方の出自は四国なのですが、名前(姓)といい、なにかしらゆかりがありそうなのです。
その方の祖先は、まだ交通の整備も十分でなかった時代に、四国から東北の鹽竈神社に参拝され、次のようなものをいただいていたようです。
見るからに古いものです。
ご本人がお調べになったところ、その祖先の方が東北、鹽竈神社に参拝したのは、明治維新から明治21年までの間のようです。
かなり論理的、実証的な根拠があります。
鹽竈神社の歴史は古く、809年頃、嵯峨天皇時代には既に信奉されていた……。
陸奥国一宮というだけでそうですが、非常に格式も高く、にもかかわらず、その後編纂された延喜式神名帳という公式トップ官社リストには名前が載っていなかった……。
この謎について考察した遠藤信道という宮司さんは、宮内庁や明治政府に上申したそうですが、この考察は後任の宮司によって否定されて抹消された……。
というようなことまで、お調べくださいました。
すごい!
鹽竈神社の由来には、武甕槌神、経津主神の天津神二柱がこの地を平定し、案内してきたのが主祭神の塩土老翁神とされています。
不思議だったのは、昨日の記事にも書きましたが、石段を登って正面に、天津神が左右の宮で祀られておいて、主祭神たる塩土老翁神は石段を上がって右手の横側に別宮で祀られていること。
この構造は、ちょっと違和感がありました。
武甕槌神、経津主神は出雲国譲り神話にも登場します。
つまり後から来て、日本の国土を譲れと迫ってきた勢力(天津神)とも言えます。迫れたのは国津神。
奈良の春日大社もこの二神が主祭神で、藤原氏の祖先とされます。
茨城県の鹿島神宮(武甕槌神)、千葉県の香取神宮(経津主神)など、東国、そして東北の非常に重要なポイントには、これらの神々がにらみを利かせているわけです。
当然と言えば当然。
これは大和朝廷が東国、東北を制圧していった歴史の中で押さえられた重要な拠点だったのでしょう。
そこに、まつろわぬ民を平定する強い神々を、各地に祀っていったのです。
しかし、塩土老翁神は違います。
記紀のどのシーンも、登場人物に地理を示唆しています。
つまり土地のことをよく知っていた。
塩土老翁神というのは、天津神(として語られるグループ)が登場する以前から、この日本の国土の中に生きていたあるグループの象徴と考えられます。
それはやはり海の民ではなかったかと思われます。
だからこそ、国内の遠隔地のことまで知っていた。
このような、元々の日本列島で生きていた人々を納得させるためにも、鹽竈神社では塩土老翁神を祀る必要があったのではないかと思われます。
この白鬚の老人のイメージで伝えられる神様の正体は明確ではありませんし、意図的に伏せられた側面もあるでしょう。
ところで、そのような伏せられた経緯が、鹽竈神社の過去にいきさつにも関係しているのかもしれません。
ちなみに。
余談ですが。
鹿島神宮と香取神宮の要石が地震を封じているというお話を聞いたことがあります。
私はこの茨城県と千葉県の神宮へは参拝したことがありませんが。
この封印が解かれて……というお話も。
同じ天津神を祀る鹽竈神社。
別宮の塩土老翁神を祀る拝殿に向かうと、やや南寄りの東方位へ向かって参拝することになります。
その方位は、ざっくり東日本大震災の震源域でもあるのです。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
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