占星術では、
・男性にとって月は配偶者
・女性にとって太陽は配偶者
をそれぞれ表現します。
男女の区別なく、太陽が父親、月が母親を表現することもあります。
(その程度は個人によって異なる)
このような「定理」は、一種の決まり事です。
それを証明するように、女性は自分の太陽を配偶者に仮託してしまっているケースがあります。
太陽は自分の全人生的なものを表現します。
性格や歩む人生の傾向や成果、社会での活動。
こういったものを自分自身ではなく、かなりの部分夫に預けてしまう、というのは、これはずいぶんと損な気がすると思います。
私の人生はどこー、みたいに。
実際、男性の場合も月が表現するものを妻に仮託してしまうことが多いので、同じような傾向は存在しますが、太陽に比べると月はやや限定的で、自分の情緒面やプライベートな生活のほうへ重きがあります。
太陽は全体的で、月はやや部分的です。
そうしてみると、女性が太陽情報を夫に仮託してしまう、というのは、男性に比べると「損している」感がより強いわけです。
もっともこの仮託の度合いは、ホロスコープの状態によって異なります。
ものすごく強く仮託するケースもあれば、きわめてその割合を少なくしている女性もいます。
これは男性の月も同様です。
私など月は自分で使っている率が高いです(月は教師のサビアンシンボル)。
でも、私の月の中には、確実に妻の情報があります。
「こういう月=妻」という条件を、実際に奥さんが持っているわけです。
封建時代は、女性が太陽を仮託する率は、とてつもなく高かったはずです。
武家であれば、家長である父(太陽)や夫(太陽)の家禄がすべてであり、その広い支配が社会全体で行われていたわけです。
現代は太陽の仮託率は、かなり低くなっているはずなのですが、それでも太陽情報の多くの部分を夫に渡している女性も、しばしば見受けられます。
それは男尊女卑的な価値観がいまだに支配的だから、というのとは、ちょっと違います。
もちろん時代によって程度は変わるのですが、女性の太陽が夫、男性の月が妻という定理は変わらず存在するからです。
このようなことを述べると、占星術の定理そのものが封建的ではないのかと疑われるかも知れませんが、いやいや、男性も月を妻に渡している率というのがあるわけで、この定理(法則)自体は社会通念などとはあまり関係がありません。
またこれは、実は「損得」でははかれないものがあります。
たとえば太陽情報が非常にハードな女性で、実際に結婚したらかなり苦労させられる男性が夫となってしまった、というケース。
これ、見方によったら、もしその太陽情報を自分で体現した場合、自分自身で大変な出来事を作り出し、周囲に振りまいていくことだって考えられるわけです。
ある男性の月がすごく良くて、大変な良妻を娶った。
でも、自慢のできる奥さんなのはいいけれど、自分にはなにもねえよ、みたいに感じる場合もあります。
この月を自分で使えていたら、男性はその喜びを得られたり、自分自身を自慢できたかも知れませんが、かけがえのない貴重な伴侶は存在しなかったかも知れません。
実際には、こういった法則・定理は、損得で勘定するのは人間のエゴだけで、何が本当に損で何が本当の得なのか、魂のみぞ知る、ということになります。
では、なぜこのような法則が存在するのでしょう?
それは単純明快。
この世は、誰かと出会うための世界であり、誰かと分かち合うための経験の場だからです。
私には、それくらいしか納得する答えを見つけられません。
この現世に生まれ、生きるということが、
そもそも誰も必要とせず、
自分だけで成立するのであれば、
ホロスコープ情報は誰とも分かち合う必要はない。
ですよね?
分かち合う法則が存在するのは、この世は独りで生きていればOKではないということ。
絶海の孤島で自給自足でもすれば、それは可能になるかも知れませんが。
でも、それって、意外に大変ですよ。(笑)
人生上生じるハードアスペクトなんかも、自分の身一つで受け取っていくわけですから、たぶん自然の猛威にさらされたり、病気になったり怪我をしたり、何かの害獣に襲われたり。
食糧難で死にかかるかも知れません。
自然や獣にしても、「他」の存在なので、実はホロスコープ情報のかち合いの中に含まれています。
ゼロにするためには、
生まれない
という選択肢しかないように思います。
この世に生まれるということは、その時点で誰かと何かと分かち合い、体験を共有し合うということ。
現実的には、誰も必要としない人間というのは存在しませんしね。
あ、そういう前提はありますが。
たとえば、今まで夫に太陽を預けていた女性は、自分が自分でありたい、太陽を取り戻したい、というような意識を持つのは、別に良いんじゃないかと思います。
自分らしくあるために。
ぽちっとお願いいたします。(^人^)
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