ご訪問ありがとうございます。
amebaのZEPHYRの後継ブログです。


作家として
占星術研究家として
家族を持つ一人の男として

心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。


2016年8月20日土曜日

奥ケ峰に眠る鬼


今日はマニアックな話です(笑)


月曜日から熊野巡りに出ます。
熊野三山だけではなく、奥宮とされる玉置山にも詣でてこようと思っています。

私の住む土地は、熊野にかかわりがあります。
その昔、役行者が伊豆大島に流刑された時に、高弟たちがこの地に船で逃れて来て、不思議な導きを受け、当時は島であった児島に霊場を開いた。

木見の諸興寺を新宮、熊野権現を本宮、由加山を那智宮。
そのように見立て、新熊野三山としたというのですが。

私の家のすぐそばの山、地図にもほとんど名称が載っていないのですが、奥ケ峰といいます。
標高300.4メートルで、児島の由加山系ではもっとも高い山なのです。

紀州熊野三山に奥宮としての玉置山があるのなら、奥ケ峰はもしかすると児島半島内にある玉置山に見立てることができるかもしれません。

奥ケ峰から連なる峯が降りてきたところに、私たちが氏子の山村神社があります。
つまり山村神社というのは、おそらくこの奥ケ峰に祀られている神様に関係している。
山頂の神社には詣でにくいので、少し下った山裾に別な拝殿を作るというようなものは、よくある話です。

奥ケ峰については、私もすべてがわかっているわけではありません。
今や鬱蒼たる山。
子供のころに山頂を極めた覚えがありますが、そこがどうなっていたか、今ではあまり記憶がありません。

しかし、山頂に向かう途中、かなり古い修験者かあるいは昔の地元の人が作ったものが、祠があるのを確認しています。
そこには「祇園様」「金毘羅様」が祀られていました。これらの神々が、この奥ケ峰に祀られていたのだと見て間違いないでしょう。

祇園様は、いうまでもなく八坂神社、牛頭天王の異名を持つ素戔嗚尊。
金毘羅様は、有名な四国のそれですが、この祭神、大物主命は大和の三輪山のご祭神と同じです。
大物主命は、一般には大国主命とされていますが、近年の神社研究家のご報告では、素戔嗚尊の子であるヒギハヤヒであるという説も有力です。


そもそも私の住む地域の由加山。
これは四国の金毘羅と児島の由加、両参りすることが江戸時代には盛んに行われていたようです。
どちらも特に海上交通の安全にかかわるものだったようですが、神話を紐解かなければ、この金毘羅と由加の関係は見えてきません。

「日本書紀」の一書に、高皇産霊尊(タカミムスビのミコト)が国譲りに際し、大物主神に対して自分の娘を妻に娶わせ、手置帆負神(たおきほおいのかみ)、彦狭知神(ひこさちのかみ)などを笠作り・盾作りの役としたという記述があります。
由加神社に祀られているのは、この「日本書紀」にわずかしか登場しない手置帆負神・彦狭知神の二柱なのです。

これは本来の国の支配者であった大物主に対して国の移譲を求め、その代償として様々な便宜を図ったということなのだと思われます。この両神は、大物主を鎮めるための存在であったと考えられます。


じつは、私は以前、ある神道系の霊能者の方から、児島から四国に移された神様がある。
それが秘密にされていると聞いたことがあります。

真っ先に思い浮かべたのは金毘羅様の大物主(ニギハヤヒ)でした。
そう考えると筋が通るのですが、おそらく瀬戸内海の交通網なども、スサノヲ・ニギハヤヒの世代でしっかりとした発達が確立され、彼らの影響力が至る所に及んでいた。

後から国の実権を握ろうとした人々は、彼らの存在を少しずつ消していきたかった。
そういった痕跡は日本各地にあるのですが、私の住む児島でもスサノヲ・ニギハヤヒが圧倒的な人気を持ち、それを変えていくために大物主を四国の金毘羅に移し、その魂を慰める役割の手置帆負神・彦狭知神が由加に祀られる形となったのではないか?

このあまり知られることもない関係性が、後の時代に金毘羅と由加の両詣りにつながっていったと思われるのです。
たぶん、もともとは由加も大物主の支配だったから。

では、奥ケ峰は?

じつはこの山は、由加山から鬼門(東北)の方角にあるのです。
大物主の御霊を鎮める由加から鬼門。
そしてこの奥ケ峰(や我が家)の真北には?

なんと吉備津彦神社があるのです。
どちらも東経133.86度。
ぴったりです。

温羅(うら)という鬼を退治したという伝承のある吉備津彦。
(これが岡山における桃太郎伝説の原型だとも言われているのですが)

つまり奥ケ峰は、南西と北の両方からの封印を受けている形になるのです。
由加は鬼門の奥ケ峰を封じ、吉備津彦は真南の奥ケ峰を封じ。

そして由加には、やはり鬼退治伝説があります。
阿久良王(アクラ王)という鬼を、坂上田村麻呂が退治したという、吉備津彦よりも後代の出来事とされていますが、そもそも征夷大将軍が児島に来たかどうかについては、かなり疑問視されています。

岡山県南に存在する鬼退治伝説二つ。
これらはどこかでリンクしている可能性もあります。

実際にそういう出来事が幾度か起きた可能性はあります。
スサノヲ・ニギハヤヒに傾倒する民が多く存在していれば、中央政権側としてはこれを幾度か制圧するという行動につながった可能性もあります。
それが結果的に、鬼退治伝説になった。

しかし、もしかするとアクラ王も温羅も、根は同じ伝承だったのかもしれません。
坂上田村麻呂も吉備津彦も、その封印のために用意された楔なのかも。


鬼は常に悪者とされますが、はたしてそうなのか?
東北の民やアイヌの民をじわじわ追い詰めていったように、西日本の各地でも同じようなことはより早い時代に行われたはず。

由加には坂上田村麻呂を祀る坂手神社というのがあります。
征夷大将軍を担ぎ出しても封印しておきたいものがあったと考えられます。
うちの山村神社は、この坂手神社の鬼門にあります。

いろいろなことをつなぎ合わせて行くと、由加にいたという鬼。
それはスサノヲ・ニギハヤヒの御霊そのものかもしれず、その御霊を信奉する民たちだったのかもしれません。





0 件のコメント:

コメントを投稿