龍神からは剣呑な気配は伝わってこなかった。
むしろ、どこか面白がっているように感じられた。
――そなたの母親は、濃い巫女の血筋だったのだろうな。
龍神から伝わってくるメッセージは、言葉に変換するなら、そのような内容だった。言語として伝わってくるのではなく、ひとかたまりの情報としてオウスの胸に入ってくる。
それをオウスが、自分なりに理解しようとすると、そのような内容に感じられる。そのメッセージの中には、オウスへの興味も含まれているように思われるのだ。
「い……いかにも。我が母は巫女の血筋と聞く」
そう言葉で返す必要はなかったかも知れない。
オウスが今抱いている、龍神への畏怖、おののき、そしてそうした巨大な心霊的存在に対しても、どこかでヤマトの皇子としてのプライドが立ち上がり、見苦しいところは見せまいと、なんとか平静さを保とうとしていて、それらが入り交じって、結局彼をしゃべらせているだけなのだが、そんなことはすでに伝わっているのだ。
――ヤマトの皇子か。ずいぶんと自負するところがあるようだが、まあ、好きにやってみるが良い。
龍神はそう告げると、磐座に頤(おとがい)を乗せたまま、目を閉じたように思えた。もはや関心を失ったかのように。
その広大な意識の中には、この山野に住まう無数の命が存在し、オウスらはそこへ紛れ込んで来た異分子に過ぎず、それとは別個に存在している一部の勢力――すなわちアクラ王一派――もまた、オウスと同様に、龍神には意識はされてはいるが、特別な関心を寄せる存在でもなかった。
龍神にとっては、自らの依拠とするこの地に住む、自らとのつながりを求め、維持する民たちのほうが、よほど関心が濃かった。
オウスは、愕然とした。
龍神に意識がリンクされることで、龍神から自分たちがどう見られているかということが、なんとなくわかったからだった。
それは、たとえば、人間が地上のさまざまなアリとかミミズとか、あるいは魚や鶏、獣といった生物を見ているようなものだった。場合によっては限りなく関心が薄く、ただそこにそうして生きているという認識しかないものもあれば、生活の中で密接に関わる生き物として、時には狩ったり、時には駆除したりする場合もある……。
龍神にとっては、オウスは菟とか鹿とか、そのようなものだった。
それはいたく彼のプライドを傷つけたが、その一方で根深い衝撃を与えた。
大和の大王、オシロワケの皇子。
そういう肩書きが、生まれながらに彼にはあった。
が、オウスはそれ以上に、自分が特別な存在であるという、なにか根拠のない強い確信のようなものを持っていた。そして、赫赫(かくかく)たる戦果を挙げることで、それを証明してきた。
しかし、そのようなオウスが自らの勲章としてきたものは、龍神の目にはまったく無価値であり、関心を寄せる対象にすらなっていなかった!
それが彼の矜持を奮い立たせた。
オウスはようやく立ち上がり、そして龍神と相対した。むろん相手はすでにこちらに関心を失いつつあると知って、なおだ。
「教えていただきたいことがある」
何かを問いかけねば、と思ったのだ。
――なにか。
面倒くさそうに龍神は、反応だけは示した。
次の瞬間、オウスは自身、思ってもみなかったことをしゃべり出していた。
「この地は、誰のものか」
すぐさま返ってきたのは……
人間的な表現をとるならば、「嘲笑」というようなものだった。
――なにを馬鹿なことを。
龍神はそういっているように思えた。
「どういうことか、お教え願いたい」
さらにプライドを傷つけられながら、オウスは、しかし、人知を越えた霊的存在に対し、拭い去ることのできない畏怖を抱き、尋ねた。
――ならば、逆に問おう。そなたの身体にも、シラミやダニがさばろうが。では、そなたは自分の身体の一部を、そのシラミやダニのものとするか?
「しない」
――それと同様なこと。この地は、誰のものでもない。このまあるい地こそが、まことの主(あるじ)ぞ。
瞬間、オウスの脳裏に、美しい青い珠のようなイメージがよぎった。
――それを感じるか。そのような知恵や洞察も、すでに消え去ったかと思われたが……
龍神は、ふと再びオウスへの関心を呼び起こされたかのようだった。
「つまり、それは……この地のまことの主は、そなたのような神ということなのか」
その問いに、とたんに龍神は「がっかり」というメッセージを発し、またオウスへの関心を薄れさせそうだった。
「待ってほしい! 私は確認したいのだ」
――なにを?
「この吉備の児島を、もともとは自分たちのものだったという者がいる。ここだけではない。ほかの地にも、そのようにいう者たちがいる。それは本当なのか」
――それを聞いてどうする。
「私はそやつらを討たねばならぬ。父王の命ゆえ。父王はこの国の支配者だ。この児島やほかの地は、父王のものなのか、それとも……」
――くだらぬ問いだ。
龍神から気配が押し寄せてきたが、それはさらに深い失望感があるように思えた。
――そなたらが住まう土地は、何万年、何十万年、何百万年という時がある。その時の過程の中で、どれほど多くの部族や種族が、その地を行き過ぎてきたと思うのか。
――そなたらはある季節に、この地にとどまり、去って行く。それはセミのようなものだ。セミは長く地の中に滞在し、夏の一時期に、そなたらの目にとまり、命の謳歌を響かせ、そなたらの目にははかなくこの世を去るように見えよう。
――セミが止まる木を、我が物と称するなら、笑止であろうが。
衝撃的だった。
オウスは絶句し、先ほどまでのとは別種の汗を流した。
「つまり……父王は間違っていると……?」
――少なくとも、そなたらは新参者といえよう。児島に限らず、この島国には1万年を超える民の歴史がある。
――そこへ、そなたらの父祖は入り込んできたに過ぎない。まあ、長い目で見れば『帰還した』とも言えるのだが……この母なる国へ。
――この地がもともと自分たちのものであったという者どももまた、同じと言えよう。我らの目には、そなたやそなたの父も、古来、ここに住む者たちも、さほど変わりはない。
――しかし、その土地には、その土地にふさわしい、なじみやすい霊統がある。それぞれの地には、固有の特色があるからだ。
――その土地になじんでしまえば、異国の者もその霊統になってしまうこともある。
――大地こそが主であり、その地にふさわしい者を呼び寄せる。あるいは、その地になじむ者こそ、その霊統を継ぐとも言えよう。
「この地を継ぐ霊統?」
――この吉備の児島は、スサノヲとその縁ある霊統の地。そなたが目指すユガの地は、その霊統が封印された地。そなたが見てきた大三島も同じ。いや、出雲も大和も、この島国はなべて、大いなる母神とその愛し子の霊統の流れの中にある。
「スサノヲ……」
――そなたもまた、スサノヲにいくばくかの繋がりを持つ身。
――地に繋がれた牡鹿よ。ヤマトという国に繋がれた者よ。そなたの行いは見ておこう。
――そなたなら翼を得て、白鳥となれるかも知れぬ。
――なれど、おのが翼は一枚と知れ。翼は一対でなければ飛べぬ。
いきなりだった。
ものすごい突風が巻き起こり、オウスの顔を木の葉や粉塵が打った。
思わず閉じた目を開いたとき、すでに龍神の姿はそこになかった。
ただ、濃密で冴え冴えとした霊気だけが、磐座の周囲にとどまっていた。
「皇子様、皇子様」
背後から声が聞こえた。吉備武彦の姿が、満月の光の中に浮かび上がった。
「いかがなされました」
オウスは汗を拭った。そして、「いや、何事もない」と平静に応えた。
しかし、身裡には異様な混乱が生じていた。驚きなのか、恐れなのか。
龍神から受け取ったメッセージは、まだなにも整理されてはおらず、少年の身には余りすぎるカオスとなって広がるだけだった。
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