昨日の続きです。
135度文明=融合の文明の中心として、今後日本は重要な役割を果たすと思われます。
が、二つ、注意しなければならないことがあります。
一つは、前にも別な記事で書きましたが、ナショナリズムが強まる可能性です。
つまり、
「日本すげー」
「こんなに世界に影響を及ぼす我が国」
これらがある程度、良い意味でのプライドで留まれば良いのですが、行き過ぎると、かならず
〝選民思想〟
という、過大な国家的民族的なエゴとなります。
戦前にあった「神国日本」みたいなものも、たぶん今一度立ち上がってきますが、こういった旧来のものとは別に、おかしな意味でニューエイジ神国日本的なものが生まれてくる可能性もあります。
国家も民族も、個人と同じです。
あなたのお隣に、エゴを肥大化させて、
「私ってすごいでしょ」
「ほら、こんなにすごいんだよ」
「他よりも断然、うちが上。それはね……(云々かんぬん)」
みたいな言動に終止する人がいたら、嫌になりますよね?
国も民族も同様で、テンションが上がっているときは自覚しにくい。
でも、周囲からは非常に冷めた目で見られます。
また、時間の経過と共に、非常に客観的な評価が下されてしまいます。
そもそも、この自分(のところ)がすごいんだというアピールは、融合の文明から離反します。
融合は、他を尊重し、認め、受け入れます。
でないと、融合など起きえない。
自分や自国に誇りを持つことと、他を貶めることは違います。
自分だけがすごいと訴える心の裏側には、そうせずにはおれないコンプレックスや強迫観念、心の傷、何かで埋め合わせたいという欲求などが存在します。
だから、過剰アピールになる。
良いものは、当たり前に受け入れられ、広がっていく。
それが普通というか、水が高いところから低いところへ流れるのと同じ自然の摂理です。
私たちはその摂理に任せておけばよいのであって、自分を高みに上げるために、他を落とす必要などどこにもない。
他を落としていると、自分がいつの間にか落ちている現実に気づくでしょう。
これは国家間の有り様だけの話ではありません。
融合のサイクルへ向かっているのは、全人類なので、私たち個人個人も「他人を落として自分を上げる」みたいなエゴによる操作は意味がないどころか、大きなマイナスとなります。
今、「差別」ということが、多方面で非常にクローズアップされています。
発信した本人にしてみれば、おそらく些細な言動が火種になって、ものすごく叩かれるという現実が起きています。
この差別は、日本人も他人事ではなく、他民族や他国家をさげすみ、貶めることは、過去からずっと行われてきました。
また日本国内でも、特定の集落や個人に、なんらかの烙印を押して差別してきました。
こういった行いは、本質的に〝実は自分が幸せでないから起きる〟のです。
本質的な幸福を得ているのであれば、このような行いをする必要がありません。
何が何でも「自分より下の人間を設定しなければ、自分が救われない・満たされない」と感じるから行う。
誰もが、胸に手を当ててみる必要がある。
もう一つの注意点ですが。
前記事で、日本の当たり前が世界のスタンダードになる可能性について書きました。
というか、これは、今世界に出ている多くの日本人が、その役割を担っているし、今後そういった事例は格段に増えると思われます。
日本の当たり前が、世界の人々に驚かれることの中に、
・鉄道が非常に正確に運行される
・宿泊施設や個人のホスピタリティ(おもてなしの心)が強い
・財布などの貴重品を落としても、すぐに拾って届けてくれるか、無事に返ってくる
・コンビニのサービスと商品が充実している
・災害時にも規律を守り、他者と共存する
……
といった、ここには書ききれないものすごく多様な事例について、今は報告するサイトや動画があります。
こういったものの根底にあるのは、日本が融合のエネルギーが強いポイントにあり、そのために、この地に生きる人々が、融合の特徴である他を「尊重する」「認める」「受け入れる」といった方向へ傾きやすく、それに沿った意識の在り方を、古代から連綿と受け継いできたからと考えられます。
いや、それは違う!
今の日本の教育制度だ!
と異論を唱えるかたもいるでしょうが、現代よりも過去に遡ったほうが、日本はより融合的でした。
今でも地方では残っているし、都会でも地域によってはあり得るのですが、自宅の出入り口に鍵をかけなくても安心という文化です。
これは昔からそうでしたが、今やそれはなかなか現実にそぐわなくなっています。誰もが出かけるときに鍵をかけます。
その地域、コミュニティの中で、私たちは〝細胞〟のように生きてきた。
どうやら、これが縄文時代に遡れば遡るほど、そうであったらしい。
「0フォース」に報告されていますが、縄文時代の円形集落から発掘される骨には、戦争などの殺傷人骨がない(円形集落以外にはある)。
弥生時代以降には、争いで死んだ人骨が発掘されるようになる。
弥生時代以降の、九州などの遺跡からは、殺傷人骨が非常に多く出ていることは、よく知られています。
そして、同地域からは、鉄器(剣など)も多く出土する。
つまり、
真に〝共生〟を実現できていたのは、なんと私たちが「野蛮な時代だと思い込まされていた」縄文時代だった!!
と、思われるのです。
鉄器がなかったから、という考え方もあろうかと思いますが、それ以前でも少なくとも「青銅器」「石器」があったわけで、争いが弥生時代と同様にあったのなら、やはり損傷した人骨が発見されてしかるべきでしょう。
現代日本人である私たちが、一番イメージしやすいのは、自然と共に生きたアイヌの人々かも知れません。
でも、もっともっと1万年という歴史を持つ縄文時代にこそ、地上のユートピアのような生き方があった。
今、よく〝共生〟という言葉が言われます。
共生とは何なのか?
それは、もちろん〝共に生きる〟ことなのだけれど、私たちがこの地球上で、ありとあらゆる人々が〝共に生きる〟ためには何が必要なのか?
0度文明の分離、差別ではあり得ません。
相手を認めるということは、自分と異なる相手を尊重するということ。
違っても認める。
そして受け入れる。
そういう生き方もあるんだな、そういう考え方もあるんだな。
そんなやり方も時には必要かもしれないな。
それが135度の日本の根底にある文明のはずで、そこに根本的に回帰する、あるいは掘り起こして我が物とする必要があるのではないか。
つまり縄文の復活です。
これ……
〝縄文〟じゃね?
たまたま、間に羽黒神社の記事を挟みましたけど。
〝むすびの松〟
え?
なんで、このタイミングで、この神社へ行く気になったんだろう……
結びついている。
こめんなさい。
今、書きながらふいに思い出して、驚いています。
えっと……
だから、二つ目の注意点ですが。
「日本の当たり前」の本質は、この地で古代から培われてきたものの中にあり、「日本の当たり前」が世界に新しいスタンダードとして波及していくからといって、
有頂天になるな!
それは私たちの何千年何万年の先人たちが培ってきたもの。
私たちはそれを受け継いでいるどころか……
ものすごく希釈化してきた。
薄まってしまった。
他からの流入によって。
それは弥生時代にあった。
が、幕末~明治にもあった(これはガイアの法則的には、日本のマイナス面になる時だった)。
そして、敗戦後、欧米の思想と価値観に染まった。
もう、けっこう、ぐずぐずじゃん!(笑)
みたいな状態。
繰り返しますが、私が回帰すべきと思うのは、戦前戦中の思想や生き方ではない。ナショナリズムは、融合に背きかねない。
じゃ。
現代に生きる私たちは、どうしたらええんですか?
みたいな話になると思います。
ちょっと、インターバルを取ります。
少し、フォースを貯めて、このへんのことをお伝えしようと思います。
来月あたりから?
最後になりますが。
現在の新型コロナウイルスと、その災禍ですが。
このコロナウイルスの果たしている「役目」は、世界中をバラバラにすることです。
このコロナ禍の性質から見て、私はこれは天災にせよ人災にせよ、天王星的な力の最後の抵抗だとみています。
つまり、分離の力です。
「日月神示」には、〝悪の御用〟というものがあります。
それもまた、摂理か?
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