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2016年7月20日水曜日

一心生ぜざれば


昨日の記事で、ぱっかーんとお気楽モードになりたかったゼファーです。
すると、ふと思い出すことがありました。


今年の京都鑑定会とセミナーの後、南禅寺を訪ねたことは書いたのですが。
金地院かな? その近くの門前に、こんないいお言葉がかかれたものがございました。



三つの勿(な)かれの勧め
一、己を責める事勿かれ
一、他と比べる事勿かれ
一、過し事を思い出す事勿かれ

これなどはとてもわかりやすくて、すっと胸に入ってくるお言葉です。
そうだよな~、つい自分を責めちゃうし、人と比べちゃうし、過去の(とくに失敗)事もつらつら思い出してしまう。

この三つをしないだけでも、人生はすごく楽しいはず。
てか、生きたまま極楽になるかも??

こういう簡単なことが、意外にできないんですよね。
でも、簡単なことで実は人生が楽しいものに変わるってことでもあるんですよね。
嬉し嬉しの人生になる。

で、じつは門前にもう一つ、引っかかるお言葉がございました。


信心銘より
一心生ぜざれば萬法咎無し

むむむっ。
浅学でお恥ずかしいですが、まったく知らないお言葉でした。
そもそも「信心銘」というのは中国禅の第三祖とされる僧璨(そうさん)鑑智禅師の書いたものとされます。
南禅寺は臨済宗で、禅寺です。
じつは我が家も檀家になっているお寺が臨済宗なのです。

鑑智禅師は6世紀から7世紀にかけての人物のようです。
禅の心得の哲学詩とでも言えばよいのでしょうか。そのようなものがまとめられたのが「信心銘」のようです。

実際にはこの一文だけではなく前後に続く文があるのですが。
その手前が、「二は一によって有り、一もまた守ること莫かれ」というのがあり、それに続いて「一心生ぜざれば」となるわけです。
意味合いとしては、以下のような感じでしょうか?
(間違っていたら、詳しい方、お叱りください)(汗)

二という概念は、そもそも「一」があってこそです。「私」が出現した時に、「他者」が存在するようなものです。
ある概念、考えが湧くことで、それが否定したり対立する別な概念が生まれます。
光があれば闇が生じるように。

2という数字は、タロットや占星術の世界でも、対を成すものとして理解できます。

このそもそもの「一」が生じることがなければ(意識の中で)、そもそも世の中のありとあらゆる分離は生まれることがありません。
つまりここでは、「一」も「二」も守ることなかれ、と言っているわけです。

それは単純に言えば、自分という「我=エゴ」でしょう。
エゴの発生と思惑や行動があるからこそ、この世には無数の問題が生じてきます。
その「一つ」という単位すら生じなければ、この世のすべてに障りがなくなる。
すべてはあるがままでよい。
自他もない。

そうなることこそが最大の心得だよ、ということだと、私は理解いたしました。

これは「三つの勿かれの勧め」にも通じているように思えます。
なぜなら「三つの勿かれ」もすべてエゴから発しているからです。

後者は哲学的な言い回しですが、それを世俗で現実的に運用しようとしたら、たくさんのやり方がある。「三つの勿かれ」も個別のことを取り上げて、理解しやすいようにお伝えくださっているものと思えます。

「一」がない世界。
自分すらない世界。

もちろん私たち一人一人が現実に存在しなくなるのではないですが、意識が「空」であり「無」であれば、そこには何の苦しみもなくなるのでしょうね。
そういう言い方をされると、「そんなことできねー!」となってしまうので、とりあえず「三つの勿かれ」はとっつきやすい。

けれど、つまりは「とらわれない心」なのではないか。
自由で闊達な、何ものにも執着せず、区別せず、是非の判定をしない心。

それはつまり大きな愛なのかもしれません。





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