すごくわかりやすく言いますと。
人にはデトックスのようなことが自然に起きることがあります。
汚い話で恐縮ですが、私の場合、よく理由のわからない激しい下痢とか、以前は時々、すごい嘔吐症状に見舞われたこともありました。
これが医学的な見地で、なにかはっきりとした理由――例えば嘔吐下痢を伴う風邪だとかウイルスだとか――いうのであればいいのですが、私の場合、どれもさしたる理由がないことが多かった。
もしそういうものなら医者にかかり、処方薬をもらわないと回復が遅いはずなのですが、なぜか一時的なもので、ちょっと時間がたつと大抵収まり、後はケロッとして日常なのです。
私はもともと霊的には鈍感にできているのですが、こういった仕事をしている関係上、やはりある時期に浄化が入っていたのです。
つまりはデトックスです。
あの現象がそういったものだったのだと知ったのは、これもまったく無頓着なもので、わりと最近のことです。
人から指摘されて気付くという……(^_^;)
ちなみに、私だけではなく、うちの家族にとっての最大の浄化フィルターは、奥さんであることに相違ありません。
存在しているだけで家族を浄化している。
最近そのことを痛感することが多く、私がこうやって活動できているのは奥さんがいてくれるからだと思っています。
個人的にも、昔から「お守りだ」と思っていました。
ちょっと余談的な遠回りをしましたが、こうした浄化作用の出方は人それぞれです。
世の中には、世間の穢れを引き受けて浄化するようなお役目の方もいらっしゃって、そういう方は理由もなく体調不良になり、ろくに動けなくなるとかいう形をとることがあります。
ご本人も理由がわかっていなくて、自分が情けないとか責めたり、また他人から悪く言われて傷ついたりなさっています。
浄化や癒しにも、いろいろと形態があるということですね。
でも、これからお伝えしたいのは、もっと身近な意味で、個人個人に起きる浄化と癒しとはどういうものなのか、またどのようにそれを受け止めたり乗り切ったり、あるいは自分で行っていけばいいのかということです。
これをお伝えするのは、この一年くらいが大きな浄化が起きる年だからです。
大きなうねりとして起きます。
私たちはそのうねりの川に、それぞれ個人のボートで乗り出していたり、家族や会社や国家という単位のボートにも相乗りしていたりしますが、うねりそのものは集団にも個人にも等しくかかってきます。
「浄化の年だ癒しの年だ」と言われても、個人個人がそれを実現できなければ、その効果は限定的になりますし、幸せになる率も減るでしょう。
あ、ちなみにですが。
浄化と癒しが起きれば、その分だけ確実にその人は幸せになります。
これは間違いありませんので、ここは前提としてお読みくださいね。
皆さんにも、この年、より自己浄化を進めていただき、その分だけ幸せになっていただきたい!
そのための記事です。
では、どうすれば自己浄化が進み癒しが起きるのか?
これは過去にも皆さんにお伝えしてきたことではあるのですが、本質は一つです。
それは自分を見つめることです。
たとえばある出来事に遭遇し、それに対して大きな怒りを抱くとします。
人間は感情をもって生まれていますし、この世に生まれることの意味はその感情をとことん味わい尽くすことにもあります。
怒りや憎しみといったものも含めてです。
この感情を否定し、押し殺すことは、実際にはあまりよくありません。
むしろ後々の禍根となり得ます。
たとえば肉親や愛しているペットが亡くなる。
そういう悲しいときには、思いっきり悲しんだ方がいい。
でないと、抑圧された悲しみはその人の中で滞留してしまいます。
そのことが、後になって、そばにいる誰かが自分の悲しみを分かってくれなかったとか、別な怒りになって出たりもするのです。
怒りや憎しみも同様で、それを抱くこと自体は、人として当たり前なのです。
(それを人にぶつけるかどうかは別な選択として)
ここでやってほしいのは、その怒りが自分のどこから湧いているのか、なぜそんな怒りを抱いてしまうのか、その大元を見つめてほしいのです。
私はあまり腹を立てない人間なのですが、あるタイプの人間の言動や出来事に対して、非常に怒りを燃やすことがあります。
自分の欲求のためになら人を不愉快にさせてなんとも思わないとか、人の安全や健康を害するようなことでも平気でできるとか、自分が絶対的に上に立って、人に強制したり支配しようとする行いです。
そのような行いに熾烈な怒りを覚えることがあります。
とくに力とか恫喝とか、そのようなもので自分の欲求を押し通そうとする存在に。
私の怒りのその裏側に何があるか?
一つはたぶんなのですが、これは私の場合、前世の名残りも含まれていて、私は江戸時代の過去生で、時の権力によって人生を壊されました。
人を思い通りにコントロールし、邪魔者は排除するという、江戸幕府の「力」に対する憎しみがあったのだと思われます。
そのためか、私は昔からかなり「反権力」的な考えを持っていましたし、作家になってからもおかしなことを書いたらすぐに抹殺されるというような強迫観念のようなものを持っていました。
(ちなみに前世は今風に言うゴーストライターの物書きで、自分が書いたものが原因で島流し)
これはこの前世情報を知らされる前から持っていたものなので、私の前世をリーディングしてくれた霊能者の情報が頭に入る以前からそうなのです。
ですから、暗示ではないと思われます。
(今はこのことを理解しているので、むやみに反権力的な考えには傾きません)
しかし、それだけではなく、実はもっと大きな直接原因があります。
もちろんそれは今回の人生。
子供のころ私のことを支配して、思いのまま踏みつけていたある人物が存在します。
これが今回の人生では、具体的な憤りの根っこなのです。
これは、ずばり兄です。
子供のころ、兄は私にとって絶対的な支配者のようなものでした。
わりと些細なことで、私が兄の思い通りの働きをしなかったとか、一緒に遊んでいても私のほうがそのゲームで勝ってしまうとか、そのような成り行きになるとあからさまに兄は不機嫌になり、私を精神的に追い詰めました。
怒りをぶつけてくることもあれば、乱暴な口調で威嚇したり無視を決め込んだり。
田舎でまわりに友達もあまりいない状況で、兄だけが私にとっては遊び相手でもあり、頼りにする相手でした。
嫌われないように顔色を窺い、ゲームなどしてもわざと自分が勝たないようにしたり。
不機嫌にさせてしまったら、そのことで自分を責めたり、悲しんだりしていました。
どれだけこの兄に頭を押さえつけられ、横暴にふるまわれたか。
理不尽なことを強要され、なんとか兄の機嫌を取ろうとし、委縮していたか。
兄に対するコンプレックスは、人生のある時期で克服できたと感じていますし、憎しみなどありません。
が、「理不尽な仕打ちに対する憤り」という感情が湧く根っこはここにあり、この子供のころの感情だけがまだ癒されていなかったようです。
この横暴な理不尽さに対する反撥・怒りを、今でも底に持っているわけです。
じつはこのことは、プリンセス☆マリアンさんが、私への助言として
「怒り・不公平な事への苛立ち」などが、形になって現れる時期なのかもしれない
とお伝えくだり、そういえばそうだなと思い、お奨めに従い、ここをとことん内観して突き詰めてみました。
でないと、皆様にもうまくお奨めできないですから。
おかげで一つ、自分を見つめることができました。
マリアンさん、ありがとうございます。
要するに、自分を見つめるというのはこういうことです。
怒りの本質、悲しみの根っこ。
その感情が湧くのは当然かもしれませんが、
「怒るのは当たり前でしょ」ではなく、
「自分の中のどこからこの怒りが湧いてくるのか」「なぜこんなに憤っているのか」
という部分を、冷静に見つめて検証するのです。自分自身に問いかけてもよいし、一つ一つ記憶を紐解いていってもいいでしょう。
その強い感情を生み出す大元が、きっとどこかにある。
なぜ気落ちしているのか。
失敗したりすれば落ち込むのは当たり前かもしれませんが、そうまで自分ががっかりしなければならないのは、もしかすると自分に対して「こうあらねばならない」という想いが強く、その想いを生み出している源があるはずなのです。
なぜ恐怖を感じるのか。
対人関係や世の中の出来事に、絶えず恐怖を感じている。普通よりもはるかに強い感情として。
いったいどんな時にその恐怖が強まるのか、どんな相手にそれを感じるのか。
過去にそんな相手はいなかったか。
しっかり見つめてみることです。
多くの場合、自分が拒否されたり、否定されたり、攻撃されたりすることを恐れているわけなのですが、その感情を抱かせるに至った何かが眠っているはずなのです。
何が原因なのか。
自分の中のどこが傷つき、泣いているのか。
憎んだり、叫んだり、拒否したり。
そのすべてのことに、じつは自分の中に根源的な要因があります。
感情が湧くのは良いのです。
それを感じ、十分それを感じたのなら、次にはその感情の根元をたどってください。
文章にしたり。
あるいは誰かとそのことをテーマにしてディスカッションするのもよいでしょう。
きっと、より深く自分のことがわかります。
そうしたら、傷ついたり苦しがったりしている自分を抱きしめて、癒してやってください。
よく頑張ったね、と。
もう十分だよ、と。
これが個人の浄化と癒しにおいて、もっとも重要で普遍的な活用のはずです。
ちょっと考えたくらいではわからないことも多いです。
本当に深いところまで突き詰めてみることです。
ただ、こういったものの根っこが今回の人生だけを原因としない場合もあります。
たとえば前世体験です。
これは普通思い出しようがないのですが、退行催眠などの治療を受けてみることも有効かもしれませんし、そもそもあまり心配すべきではありません。
今回の人生は前世に振り回されるためのに設定されているわけではなく、基本的にはそういった体験やそこに根ざした感情も克服したり浄化できるようにプランニングされています。
それは頑張って生きていれば強さが身について自然に解消することもありますし、この人生に設定されている何らかの出会いや出来事の体験を乗り越えることで解消する場合もあります。
このような方であっても、自分の感情の根を見つめることは有効です。
なぜかということは、すぐ後で解説します。
ともかく。
この一年が非常に重要な浄化と癒しの年であるとすれば、この傾向を持つ年回りに、この自己の浄化ができれば、相乗効果でその人は今よりも幸せになれます。
今どん底だとすれば、そこから浮上するきっかけになります。
が。
この浄化と癒しの年回りに、ここを蓋をしたまま過ぎてしまうと、やはり幸せに近づきにくい。
それに大きなうねりが、健康面や仕事面など、なにか非常に迷惑と感じるような強制的な進路変更を促してくる場合もあります。
このような事例は、過去の鑑定で非常にたくさん見てきています。
冒頭に記したデトックスの事例は可愛いもので、実際には大きな病気をすることで、人生の進路や自分の価値観に大転換を促されたという事例はとても多いのですが、これは自分を見つめることとそれによる癒しが進まなかった場合、強制的に「気づき」として起きることが多いのです。
プロセスとして、そういった計画を持たれている魂も数多く存在します。
ですから、プロセスとしてあれがダメこれはOKというのもありません。
しかし、自分を見つめることができたら、それはそのまま癒しにつながります。
では。
なぜ、自分を見つめることができたら、それが癒しにつながるのでしょうか???
これには、はっきりとした説明が可能です。
それは、客観視なのです。
たとえば多くの場合、深い悲しみや憎しみの中に埋没してしまっている方は、自分自身の想いに埋もれてしまっています。
自分の傷ついたところとか、悲しくてつらい思いとか、そこだけをいつまでも見ているし、辛さのあまりそこにしがみついてしまっている。
私の兄に象徴される理不尽な圧制者に対する憤りがそうであるように、そこはそう簡単に手放せないのはわかります。
でも、じつはこの本質を突き止めた段階で、私はもう本体を別な角度から見ることに成功しているのです。
今まで私はその中にいた。
でも、今はそれを外から見ることに成功しているのです。
これがつまり客観視ということです。
自分のことが見られている。
そうすると、その憎しみを手放したのと同じ状態になるのです。
なぜなら、一度客観視したら、そこへ前のようにはもう二度と埋没できなくなるからです。
前世体験が原因で発生する感情の場合、その根っこを記憶の中に突き止めることは難しいかもしれませんが、常に自分の中に「なぜ?」と問いかけ、その原因を見つけ出そうとすることは、すでに客観視しようとしていますので、感情からの距離ができた状態になっています。
この状態を続ければ、次第に感情の中にどっぷり染まることは少なくなっていきます。
実はこれと同じような現象は、鑑定の現場でも無数に起きています。
私はホロスコープやカードを読むことしかしていません。
私は冷たいことにあまり同情しないタイプの鑑定士なので(笑)、ご相談にいらした方に同調することをあまり致しません。
むしろたんたんと、それが起きたときのチャート状況を解読し、カードの中身が何を告げているのか、相談されている方に解説します。
ところが、そのことが化学変化のように、チャートやカードという媒体を通じることで、「自分を見る」ということを結果的に引き起こすことがあるのです。
これは、たとえば私が主催している占星術講座の中でも起きています。
受講生の方はいずれ、ご自分でチャートを読めるようになるのですが、そういった作業を通じて自分と起きた出来事を一度、チャートというフィルターを通すことで客観視できます。
あるいは講座では、希望者のチャートを読むということを行っていますので、私の解読がそのまま客観視につながることがあり、結果的にそれが「癒し」になることもあるのです。
これは過去の出来事を読む、そして正しくチャート上認識する、ということが必要になりますので、もちろんちゃんと読めるように学ばなければなりません。
が、身に付けて行けば、自分で自分をどんどん癒せることになります。
こういったことは、個人個人の身でもその気になれば行えます。
自分の中を見ること。
それに尽きます。
そしてこの一年ほどを、皆さんそれぞれの浄化と癒し、そして幸せになる年になさってください。
そして、自分を見つめたなら、自然と次は外へ向かいます。
あなたの周囲へと。
今はもう、窓も扉も開いているのですよ。
皆、外に目を向けていないだけ。
澱の底にうずくまっていないで立ち上がればよいのです。
※写真は先日の「大神宮」の下流にある、ある神社のもの、一枚目のお社は祓戸大神(はらえどのおおかみ)をお祀りしています。拝殿の背後にある山に巨石が見える山がありますが、この山の奥に先日の「大神宮」がひっそりと存在しています。