昨日の朝、つまり新月の朝です。
空は何かを呼びかけるようでした。
装飾されたハンカチ(新月のサビアンシンボル)。
日本という国で生きる私たち。
この国土に生まれ、その経緯がどうであれ、縄文以来のDNAを私たちが持っている。
紡げよ。
結び合わせよ。
そういわれているような気がしました。
誰もが幸せになりたい。
幸せの形は多様。
何を持って幸せと感じるかも多様。
しかし、煎じ詰めれば、
人と結び合うこと
があるかどうかが、〝幸せ〟の大きな境界線です。
自分が好きなこと、楽しいことをするとき、喜びがあり、それはただ一人のものであっても幸せには違いありません。
たとえば、私が占星術の研究をして、何かを発見するときというのは、喜びですし、楽しいし、ある種の幸福感はあります。
見つけられた! 知った!
という喜びです。
でも、そもそもこれは、
人がいなければ成立しません。
というのは、ホロスコープの研究というのは、自分以外の誰かが存在しなければ、成り立ちません。
人様のチャートの動きを見て、現実を知り、だから法則的な発見があるわけで。
あるいは、自分のホロスコープだけ見て、自分の運勢を精査して、その時何が起きたとか、それは何の星の効果だったとか、こういった研究はとても楽しいものなのですが、こういった「知った」「見つけた」というのも、そもそもそ自分以外の人間がいなかったら、無意味です。
自分しか存在しない世界だと、何かを見つけたとしても、それを伝えるべき他者も存在しないし、評価してくれる存在がいません。
それがゼロだと、発見の喜びも無に帰します。
そもそも「知った」「見つけた」という感覚さえ、他者が存在しなければ、ないわけです。
あるいは、たとえば、何かのゲームをやって、楽しい、嬉しい。
私も、スマホでマリオカート・ツアーなんかやっていますが。
すごい得点を出せたときとか、ドカンでいいのが当たったとか。(笑)
こういうものも、結局、相対性が存在しないと、あり得ないわけです。
いつもはうまくいかないけど、今回はうまくいったとか。
他のライバルたちよりも格段にいい点数を叩きだし、ルビーをたくさんもらえたとか。(笑)
これも、他の誰かが存在しないと、喜びなんかそもそもないですよね。
だって、比較対象がない。
ゲームの話なんかしてますけど。
仕事や結婚や、他の様々な人生を構成する要素の中で、私たちは〝幸せ〟を感じたり、逆に〝不幸〟を感じたりしていますが。
それらは、この世界の〝相対性〟の中で感じている(ことが多い)。
これらは、私個人の決めつけで言わせてもらいますが。
〝幸せ〟に違いありません。
なんたって、「幸」という漢字は、もともとの意味としては「手枷」の象意があるから。
これは漢字の成り立ちについて調べてもらえば、そういう情報が出てきます。
「幸」という漢字は、とても良い印象が強いのですが、そもそも罪人にかけられる手枷、今の感覚でいうと「手錠」なんですね。
なんで、これが幸せの文字となったかというと、いろいろ説はございますが、この手枷を脱した場合、自由になれるので、「ラッキー♡」というわけです。
私の妄想論みたいなものなので、テキトーに流して下さいね。
この手枷というのは、地上に繋がれた私たちそのものではないか。
私たち、本来は自由な魂は、この地上の様々な制約を受けています。
もしここから解き放たれたら、嬉しい、楽しい、しあわせということ。
……か?
たぶん、それはちょっと違う。
この相対性の世界、つまり物質世界では、そういったことから一番、幸福感を得やすい、わかりやすい。
だから、この地上で感じる〝相対的な幸せ〟もまた、否定されるべきではない。
貴重な体験。
なのですが。
この地上につながれ、手枷足枷があるからこそ、私たちは幸せになるということも、逆説的に言えます。
人間関係の枷、肉体や健康の枷、富の枷、環境の枷。
これを脱却する瞬間、私たちはこの地上での幸せを得る。
だからこそ、この文字が〝幸せ〟なのではないか?
(繰り返しますが、私論です)
というのが、これまでの時代。
かな?
これからは、〝仕合せ〟ではないか。
あるいは〝為合せ〟。
中島みゆきさんの「糸」という楽曲の中にある、歌詞には
「仕合せ」と書かれている。
これは縦糸を相手、横糸を自分と想定し、それがつむぎ合わされることで、一枚の布となる、それが人を温めることもある、そうなれる「あなたと自分」の出逢いこそが仕合せというものなのですが。
もちろん、出逢いが仕合せでもある。でも、
〝為すこと〟
を
〝合せること〟
が、つまり真の仕合せ(為合せ)なのではないか。
〝仕〟とは、「仕えること」です。
なにに?
主君に? まあ、中世ならありますね。
妻が夫に仕える? これも封建時代的な発想。
違う。
今はもうそういう過去の亡霊に支配されるときではありません。
仕えるというのは、つまり、
〝今のあなたが今の状況の中で誰かを幸せにする〟
ということ。
下僕になるということではありません。
奴隷でもない。
隣にいる誰かを
喜ばす
幸せにする
それがあるからこそ、〝幸〟は手枷。
一見、そう見える。
が。
相手に仕えるように見えるところから、実は
〝仕合せ〟
は生まれる。
なぜなら、〝合せる〟から。
つまり、男は女に仕える。
女は男に仕える。
つまり双方向⇔のエナジーが生まれる。
これが、真の〝仕合せ〟。
仕合せのためには、当然、何もしないはあり得ない。
〝為す〟ことが必要。
だから〝為合せ〟でもある。
互いに為すことが、相手を喜ばす。
幸福にさせる。
ここに至ることが、人類の究極の、この地球というステージに生まれ、連綿と命と情報とDNAを繋いできた理由。
この〝仕合せ〟〝為合せ〟の段階では、自分が一見、犠牲になるかのような〝幸〟は超えられます。
なぜなら、こちらが為すことに対して、相手も何かを為すから。
こちらが仕えることで、相手も仕えるから。
つまり、わかりやすくいうと、奉仕の交換のような状況になるから。
そこはもう、無限∞のループになる。
私たちは、この〝仕合せ〟に至る途上にあります。
たった今の自分がそうでないとしても、大局的には、20年30年というような長い流れでは。
過去の人類史(有史の)になかったような、局面に至りつつあるはずですし、私たちは相互に幸福を得る道に至らなければなりません。
この現世で、地上で。
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