あわただしく東京行きの準備中。
そんな中でも鑑定依頼は入るけど、そこは普通にクリア。
不足しているものは買ってきた。
我が家の日常の買い物もした。
レスタスとかサニーレスタスとかキュウリとか(笑)
用意すべきものも、トランクには詰めたし……
髪も今日はカットしてもらった。
(あまりいい見栄えじゃないけどね! 多少はね!)
あとは……
鑑定に来られる方々のホロスコープのデータ入力かな?
まだやってねーのかよ! と突っ込まれそうですが。(^_^;)
鑑定はしょせん、〝その場〟が重要なので。
あ、でも、これはケース・バイ・ケース。
日常の鑑定もそうですが、本来は準備なんかできないんですよね。
その場でホロスコープ作成、さあ、はじめましょうか、みたいなものが多いので、見てすぐホロスコープを〝体感〟しないといけない。
まだホロスコープを学習途上の方は、事前にデータをいただいて〝予習〟しておくのはありです。
まあ、それの場合は、質問内容も事前にお伝えいただいたほうが良いかも。
私はほとんど〝予習〟はしませんが、質問内容によっては時間のかかるものもあります。出生時間を推定するレクティファイなど。
上で〝体感〟という言葉を使いましたが、正確な表現ではありません。
でも、ほかにあまり近い言葉がないのですね。
私はたいてい、その人のチャートを見たら、そのだいたいの印象や目立った印象はするっと認識の中に入ってきます。
それは、過去の何十年の中で積み重ねてきた経験知に裏付けされたものです。
ポイントになりそうなところは、すぐにわかる、ということです。
だから、質問が発せられた段階で、どこを見ればよいかわかる。
想定外の質問であっても、よくよくディスカッションしたら、ポイントに結びついていることはよくあります。
こういうものを、解読とかいう表現も取れるのですが、実際、じわじわやっているのではなくて、わりと瞬間的というのか、短時間で感じ取っているのです。
これは理屈や情報の集積ではあるのですが、それをいちいち検証して、フィードバックして…ということを繰り返してではないのです。
だいたい、見た瞬間にいくつのかパターンが出てきていて、そのいくつのかパターンをディスカッションして、その人にとっての星の出方を絞り込んでいく、という流れです。
視覚に一番頼っています。
〝見たイメージ〟なので。
だから、もしかすると〝視感〟というような言葉が一番近いのかもしれません。
なんにしてもこれは、占い師としての経験知を土台にして養われます。
心境の変化を一つ。
私にとっては、結構重要なというか、内面的には目立った変化なんですが。
このブログの「肩書」にしても、これまでの対外的な「名乗り」にしても、私は「占星術研究家」ということを表明してきました。
というのは、世間に出回っている「占い」「占い師」という表現に、相当ないかがわしさがあって、そのイメージは自分がやっているホロスコープの様々な研究とは相容れないものが、私の中であったのです。
ホロスコープに関しては、どっちかというと学術的な検証価値があるものとすら思っています。
これは今でもそう思っているし、自分はどこまでも研究家だと思ってもいます。
ですが。
なんか、最近、「占いでいいんじゃね?」とか名乗るときに「占い師でいいんじゃね?」とか思うようになっていたのですね。これが。
なんでこのような変化が起きたのか、あまり考えたこともなかったのですが。
これはもしかすると、より霊的な方向に傾いているからかも。
占星術は天王星なんですよね。
これは理論です。
占星術はほとんどが理論で、マスターすればだれでも論理的にその人のことや出来事を説明できます。
しかし、タロットには論理性は存在しません。
星の位置がこうだから、とかいう、論理的な根拠(科学的には否定されているにしても)が何もないのです。
これは海王星的な世界であり、場合によっては冥王星的な世界です。
この海王星的な領域に、なんとなく入ってきてしまって、だからタロットも完成したし、「占い」でいいじゃないかと思うようになった?
だって、論理を超えているので。
研究家…ってのもねえ?
なにを研究するの?
研究の余地はあるけど、それって今までの〝体感〟〝視感〟以上に、感覚的なものじゃないの?
タロットの完成は、スピ鈍の私にも、とても分かりやすい〝サイン〟なのかもしれない。
こっちだぞ、と言われているような。
とりあえず、もともとタロットの理論超越型の啓示にはお世話になってきました。
これからは、よりそちらに寄るのかもしれませんが、
別に占星術は捨てませんので
ご安心ください。
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