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今日は1日。
いつもより早めのジョギング。
そして、いろいろと準備を整えて、山村神社へ。
kira*kiraさんから近江のお酒と、丹生川上神社のお守りのお土産を頂きました。
うわ、どちらもパワーがありそう。
「長寿金亀」で長生きできるかな?
丹生川上神社……もう行ったのがいつだったか、定かな記憶がない。
結婚前だったような……
うん。
近いうちに、奥さんと行きたい。
愛について
「このアイすげー!」っていうCMもありますが。(笑)
いろいろな愛がこの世にはあります。
愛という言葉からすぐに連想するのは、「恋愛」とか「肉親やパートナーを愛する」ということではないでしょうか。
しかし、愛には「友愛」もあれば「博愛」もあれば、「敬愛」「親愛」「純愛」「慈愛」もあれば、「溺愛」なんてのもある。
日本人というのは、「愛している」と伝えることはあまり得意でないっぽいですよね。
とくに昭和世代とかは。
うちなんかは、昭和世代だけど、普通に言い合いますけど。
私は本当に愛している相手であれば、呼吸をするように言えます。
言って損をするものではないと思います。
相手を満たし、その結果、また自分も満たされる。
これを伝えられるかどうかは、幸福の大きな境目になるかもしれません。
この言葉がないばかりに、隙間がいつの間にかできてしまうとか、愛されていないのではないかとか、不安に思ってしまうとか。
言葉がなくても、伝わり合うというケースもあります。
「愛している」という言葉を夫が言わなくても、もう十分に分かっている。
それは日々の行動や、何かの出来事で伝わることもあります。
言葉にする愛。
行動で示す愛。
愛はまことに多様です。
それゆえに、陥りやすいこともあります。
自分が望む愛の形、自分の望む愛の示し方。
それがなされない場合、「愛がない」と思い込んでしまう。
また親の愛も多様です。
子の幸せを願うのは、親としては普通の感覚ですが、親の価値観に沿うことが子にとって幸せに繋がるとは限りません。
しばしば、「この考えで私が幸せになっているのだから、同じようにすることが子どもにとっても幸せを意味するはず」と、非常に強い固定観念を持ってしまうこともあります。そして、その観念で縛ろうとする行為が、「親の愛だ」と思い込んでしまう。
溺愛という言葉は、よく親から子へのそれで表現されます。
客観的、理性的な判断ができない状態で、対象へ過剰な愛情表現を行うこと、という感じでしょうか。
これはもう、「過干渉」と紙一重です。
このように、
愛という言葉、愛という行為は
それが何と結びつくかによって、まったく意味合いが違ってきます。
そもそも、「真の愛」とは、
他愛
とか
小我ではなく、大我によるもの
とか
いやいや、イエスの愛です
とか
自分への愛こそ
とか
を尊重する立場もあります。
すべて間違いではないと思います。
それほど愛は多様で、様々な顔を持ちます。
非常に多くの人にとって、「自分の示す愛」「自分が持っている愛情の形」こそが、その人にとっての「愛」なのです。
一般的に非常に歪んだ形としては、ストーカーとか、そういうものでさえ、その当人にとっては「愛なんだよ!」と言いたいのかも知れません。まあ、これについては、一般的には受け入れられないですし、私も「そりゃ、ないよ」と思うのですが。
こういった「愛」について。
真の愛とか、そういう定義の基準は、きわめて曖昧です。
ご意見も多数ある。
でも、自分が思うところとして。
自分の持つ愛、自分が示す愛が、
いかに個人的なものか、いかに世界に開かれたものか
によって、いろいろな段階があり、そのどこかの段階に、いろいろな愛の単語が収録されていくように思います。
あまにも個人の思い込みに振り切ったものであれば、
それは、愛ではなく、ただの執着
という表現も取られることになりやすい。
ただ、それでも、本人にとっては「愛」なのです。
真なる愛に至る道。
それを、私なりに表現するなら、
・自分にとらわれなくなればなるほど、相手のことも見え、理解でき、その上で自分なりの愛を示すことができる。
・自分にとらわれていると、相手のことが見えず、理解できぬまま、自分なりの愛の形を押しつけることになる。
というところでしょうか。
この間には、無限の段階があると思います。
人は、この無限の段階で、それぞれの愛を実現しようと思います。
ピンク文字の最上の段階では、慈愛とか、アガペーとか、そんな領域でしょうか。この段階では、敵でさえ愛せるかも。
黒文字(太)では、自分のエゴにとらわれて、こうするべき、こうしてほしい、とかガチガチの型にはめてしまい、自分なりのその型に、相手をはめ込もうとします。合わない相手には攻撃する可能性すらあります。
ということは?
そう。
つまり、いかに自分を解放し、自分のエゴを癒し、この世界の中での自分を愛せるか、ということが、より上位の愛に近づくかのプロセスになりやすい、ということです(例外的な事例はあると思いますが、かなり稀)。
上位の愛、というのは、なんというのか、世俗的な表現なのですが、まあ、わかりやすいかと思います。
この自己解放とか自身の癒しとか、そういったプロセスは、人それぞれ合ったものがあると思います。
執着を捨てるとか、インナー・チャイルドを癒すとか、観念を手放すとか、ブロックを外すとか。
いろいろ、そういった系統の情報発信があると思います。
なんにしても、自分に合った手順を見つけ、実践し、意識を少しずつ広げていくことです。
意識する領域が広がれば、当然、
他者への思いやりが生まれ
感謝が生まれ
他愛が生まれます
愛は複雑。
感謝もまた、愛の一つの形とも言えます。
その先に、普遍的な愛もあるかも。
ここにもまた一つ。
感謝を捧げたい人がいます。
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