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2022年10月2日日曜日

愛について

ご訪問ありがとうございます 🌟

 

今日は1日。

 

 

 

いつもより早めのジョギング。

そして、いろいろと準備を整えて、山村神社へ。

 

今年行った山村神社の修繕(シロアリ駆除も)に奉賛して下さった皆様の招福を祈願する日です。

 

 

 
祈祷中です。
滞りなく(?)終えることができました。
ちょっと?がついてしまいましたが。(笑)
そこは後でフォローするとしよう。
 
ちょっとバタバタの数日を過ごしているゼファーです。
神社の準備もあったのですが、昨日の12星座占いもかぶり、その他諸々。
 
昨日!
 
imageimage
 

kira*kiraさんから近江のお酒と、丹生川上神社のお守りのお土産を頂きました。

うわ、どちらもパワーがありそう。

「長寿金亀」で長生きできるかな?

 

丹生川上神社……もう行ったのがいつだったか、定かな記憶がない。

結婚前だったような……

うん。

 

近いうちに、奥さんと行きたい。

 

 

  愛について

 

「このアイすげー!」っていうCMもありますが。(笑)

いろいろな愛がこの世にはあります。

 

愛という言葉からすぐに連想するのは、「恋愛」とか「肉親やパートナーを愛する」ということではないでしょうか。

しかし、愛には「友愛」もあれば「博愛」もあれば、「敬愛」「親愛」「純愛」「慈愛」もあれば、「溺愛」なんてのもある。

 

日本人というのは、「愛している」と伝えることはあまり得意でないっぽいですよね。

とくに昭和世代とかは。

うちなんかは、昭和世代だけど、普通に言い合いますけど。

 

私は本当に愛している相手であれば、呼吸をするように言えます。

言って損をするものではないと思います。

相手を満たし、その結果、また自分も満たされる。

 

これを伝えられるかどうかは、幸福の大きな境目になるかもしれません。

この言葉がないばかりに、隙間がいつの間にかできてしまうとか、愛されていないのではないかとか、不安に思ってしまうとか。

 

言葉がなくても、伝わり合うというケースもあります。

「愛している」という言葉を夫が言わなくても、もう十分に分かっている。

それは日々の行動や、何かの出来事で伝わることもあります。

 

言葉にする愛。

行動で示す愛。

 

愛はまことに多様です。

それゆえに、陥りやすいこともあります。

 

自分が望む愛の形、自分の望む愛の示し方。

それがなされない場合、「愛がない」と思い込んでしまう。

 

また親の愛も多様です。

子の幸せを願うのは、親としては普通の感覚ですが、親の価値観に沿うことが子にとって幸せに繋がるとは限りません。

しばしば、「この考えで私が幸せになっているのだから、同じようにすることが子どもにとっても幸せを意味するはず」と、非常に強い固定観念を持ってしまうこともあります。そして、その観念で縛ろうとする行為が、「親の愛だ」と思い込んでしまう。

 

溺愛という言葉は、よく親から子へのそれで表現されます。

客観的、理性的な判断ができない状態で、対象へ過剰な愛情表現を行うこと、という感じでしょうか。

これはもう、「過干渉」と紙一重です。

 

このように、

愛という言葉、愛という行為は

それが何と結びつくかによって、まったく意味合いが違ってきます。

 

そもそも、「真の愛」とは、

 

他愛

とか

小我ではなく、大我によるもの

とか

いやいや、イエスの愛です

とか

自分への愛こそ

とか

 

を尊重する立場もあります。

 

すべて間違いではないと思います。

それほど愛は多様で、様々な顔を持ちます。

 

非常に多くの人にとって、「自分の示す愛」「自分が持っている愛情の形」こそが、その人にとっての「愛」なのです。

一般的に非常に歪んだ形としては、ストーカーとか、そういうものでさえ、その当人にとっては「愛なんだよ!」と言いたいのかも知れません。まあ、これについては、一般的には受け入れられないですし、私も「そりゃ、ないよ」と思うのですが。

 

こういった「愛」について。

 

真の愛とか、そういう定義の基準は、きわめて曖昧です。

ご意見も多数ある。

 

でも、自分が思うところとして。

自分の持つ愛、自分が示す愛が、

いかに個人的なものか、いかに世界に開かれたものか

によって、いろいろな段階があり、そのどこかの段階に、いろいろな愛の単語が収録されていくように思います。

 

あまにも個人の思い込みに振り切ったものであれば、

それは、愛ではなく、ただの執着

という表現も取られることになりやすい。

 

ただ、それでも、本人にとっては「愛」なのです。

 

真なる愛に至る道。

 

それを、私なりに表現するなら、

・自分にとらわれなくなればなるほど、相手のことも見え、理解でき、その上で自分なりの愛を示すことができる。

・自分にとらわれていると、相手のことが見えず、理解できぬまま、自分なりの愛の形を押しつけることになる。

というところでしょうか。

この間には、無限の段階があると思います。

 

人は、この無限の段階で、それぞれの愛を実現しようと思います。

ピンク文字の最上の段階では、慈愛とか、アガペーとか、そんな領域でしょうか。この段階では、敵でさえ愛せるかも。

黒文字(太)では、自分のエゴにとらわれて、こうするべき、こうしてほしい、とかガチガチの型にはめてしまい、自分なりのその型に、相手をはめ込もうとします。合わない相手には攻撃する可能性すらあります。

 

ということは?

 

そう。

つまり、いかに自分を解放し、自分のエゴを癒し、この世界の中での自分を愛せるか、ということが、より上位の愛に近づくかのプロセスになりやすい、ということです(例外的な事例はあると思いますが、かなり稀)。

上位の愛、というのは、なんというのか、世俗的な表現なのですが、まあ、わかりやすいかと思います。

 

この自己解放とか自身の癒しとか、そういったプロセスは、人それぞれ合ったものがあると思います。

執着を捨てるとか、インナー・チャイルドを癒すとか、観念を手放すとか、ブロックを外すとか。

いろいろ、そういった系統の情報発信があると思います。

 

なんにしても、自分に合った手順を見つけ、実践し、意識を少しずつ広げていくことです。

意識する領域が広がれば、当然、

他者への思いやりが生まれ

感謝が生まれ

他愛が生まれます

 

愛は複雑。

感謝もまた、愛の一つの形とも言えます。

その先に、普遍的な愛もあるかも。

 

 

ここにもまた一つ。

感謝を捧げたい人がいます。

 

 

 

 


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